わが家が私立中高一貫校を選んだ理由

中学受験準備に意味があるのだ

もうずいぶんと前のことだが、あるいは参考になるかもしれないので、以下「わが家が私立中高一貫校を選択した理由」を記させていただく。

わが家はもちろん「私立に行かせるのが当たり前」といったタイプの家庭でもなかったし、経済的なこともあり、ずいぶん悩んだのも事実だった。

そしてその当時は、小学生高学年の子どもを持つ多くのご家庭が、わが子の大学進学について「できれば上位国公立か、私立なら早慶上智」というふうに漠然と考えていたのではなかったかと思う。わが家もそうだった。

僕は早慶上智ではない私立大の出身であり、妻も国公立ではあるけれども、その中でももっとも入りやすい部類に分類されている大学の出身だ。だから、DNA的にあまり過度な期待をしてはいけないとわかってはいるけれども、まあしかし、なにせ「小学校高学年のうち」であるから、それくらいは許していただいてもいいのではないかと勝手に思っておりました。

で、小学校低学年から公文式に通わせ、高学年で進学塾に切り換えるというパターンで教育(?)してきた。中学受験を目標にして、しっかり勉強させるということが、まず大前提としてあった。

僕自身も中学受験を経験している。記念受験に近い、というよりも記念受験そのものだったので当然のように不合格で公立中に行ったのだが、しかし今振り返ってみれば、人生の中で中学受験を目の前にした時期ほど勉強したことはなかった、と思ったりもする。高校受験のときは、その直前に公立高三教科入試の地区から五教科入試の地区に引っ越したこともあり、もうどうせ駄目だと半ばふてくされていたし、大学受験のときは、私立文系三教科の勉強しかしないと数Ⅰで二次関数が出てきたときに早くも決心していたからだ。

それはともかく、僕は、たとえば「384/1111を小数にした場合の、小数点以下234桁目は何か」や「『隘路』の読み」などを、中学受験準備の過程で学んだ。たぶん、中学受験しなければ、今でも、こうしたことを知らないでいただろう。

そして何よりも、あれから数十年経ち脳細胞が半分以上は死滅しているであろう今でも、あの時代に学んだことを頭の深い部分で覚えていることに、我ながら感心する。僕のような凡庸な人間でさえ、中学受験学齢は、それなりに吸収力があったのだと思う。

であるから、わが子にも、中学受験するしないはともかく、中学受験を仮のターゲットとした「受験勉強」だけはさせたかった。

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中高一貫校か高校受験か

さて、そんな思いから中学受験準備を家族で進めてきたわけだが、いざ中学進学を考えるにあたっては、これも皆様と同じく、予定通り中高一貫校に行かせるのか、あるいは公立中に行かせた上で3年後に公立の上位高校と私立高校の特進コースに類するものを併願させるのか、という点について、やはりずいぶんと悩んだ。

仮に、①中高一貫校、②公立中→公立上位校としてみよう。②の場合、当然、小学校時代から通わせていた進学塾に継続して通わせることになる。公立のトップ校の使命は、「学力上位層をさらに鍛える」であるから上位合格は必須であり(そうでなければ、数Ⅰで二次関数が出てきたときに五教科受験を諦めてしまう可能性がある)、そのためには、中学に入ったからといって、塾通いを止めさせるわけにはいかない。

そして、その塾での勉強が上手くいっている――すなわち塾でトップクラス、あるいはそれに準ずるクラスに在籍し、ライバルであるところの〇〇ちゃんと「前の模試では負けたけど、今度の模試では勝った」みたいな健全な競争を展開しつつ、かつ、その〇〇ちゃんも公立に行く――ケースでは、②公立中→公立上位校という進路を選んでもいいし、それもひとつの定見だと思う。

しかしわが家の場合、そうではなかった。細かい経緯は家族の恥をさらすことにもなるので省くが、ともかく我々夫婦は、「中高一貫校に入れて、一回、勉強をリセットしよう」という結論に達したのであった。これは、ある意味では逃げでもある。そしてその逃げには、「高校受験に付きあわなくてもいい」という甘い誘惑も付属している。いや、これは確かに魅力的でした。受験準備に伴うもろもろの精神的「かったるさ」や肉体的「労苦」を、もう一度、3年後に繰り返したくなかったのだ。

が、これが一番大きな理由かといえば、そんなこともない。当たり前だ。それを最大の理由にすれば保護者失格だ。が、でもねえ……、これはとても大きかったと正直に白状させていただきます。

さらに、公立中+塾というパターンを選んだ場合、勉強が二元化してしまうリスクがあることを恐れた。中学校に塾の教材を持って行き帰りにそのまま塾へ、ということも多くなるだろうと考えたが、そうしたときに「あ、塾の教材忘れた」ということが度々起こるであろうことは、自分のDNAを受け継いでいる子だけに容易に想像がついた。むろん、中高一貫校に行かせたにせよ、早晩、塾が必要になるだろうが、さしあたって中1時点では勉強を「一元化」しておきたかったのだ。

とまあ、「わが家が私立中高一貫校を選択した理由」を書き連ねれば、そういうことになるのだが、もう一つだけ理由がある。

「○○高生であることに誇りを持て」にスーパー違和感!

僕は地方の公立高校の出身だが、その3年間、どうにも馴染めないことがあった。どの先生もことあるごとに、「〇〇高生としての誇りを持て」と言っていたことに対して、だ。

所属している組織の看板(?)が自分の誇りにつながる、という考え方が、理解できなかったし、今でもできない。それでも、たとえばブランド企業の社員が、その会社の社員であることに誇りを持つのは、まあわかる。なぜなら勤務している以上、どんな社員だってその企業のブランド化に寄与しているからだ。しかし学校の場合、どうだろう? 生徒が学校のブランド化に貢献できるのは、学力面では、その高校の大学合格実績に何がしかの成果を加えたとき、つまり卒業後であって在学中ではない。もちろん今は、SGHやSSHをはじめとした高校生のプロジェクト活動が非常にさかんなので、在学中に「〇〇高校の〇〇さん」として世に出るチャンスは多いが、しかしそれでも在校生に対して「誇りを持て」と指導するのは、やっぱり変である。

あるいは名門高校であれば、その伝統に連なることに誇りを持て、という理屈(?)も成り立つかもしれない。しかしその場合でも、誇りを持っていいのは「中学時代に一生懸命勉強し、名門高校に合格した自分」であって「名門〇〇高校の看板を背負った自分」ではないし(理屈っぽくてすみませんね)、第一、僕の行っていた高校は、学校群選抜の中の新設校であって名門でも何でもなかった。

というわけで、出身校を含む公立高校というものに、なんとなく違和感を覚えていたことも、私立中高一貫校という選択に向わせた理由である。私立一貫校の場合、「〇〇生であることに誇りを持て」という価値観から解放されているように思えるからだ――生徒に「麻布生であることに誇りを持て!」などと言っている麻布の先生なんて、あまり想像できませんもんね(実際はどうだか存じ上げませんが)。むろん、わが家が受験・入学を検討した学校も、そういったタイプの学校だった。

仕事柄もあり、その学校の先生とはよく話をし、学校についての情報をたくさん得たことも大きかった。そうした中で僕は、「御校も最近は“全入”に近いですねえ」などと、受験を検討している保護者としての立場から不満気に言ってしまったのだ。そのとき教頭先生は、釈明(?)に努めてくれたのだが、しかし、入学して最初の実力テストでのわが子の順位を見て、僕は顔が赤くなりました。“全入”の恩恵を受けたのは、わが家の方だったのである。ぎゃふん!

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