「自分で調べ考える」はサバイバル要件!?
漫画『ドラゴン桜』で桜木先生が以下のような名言を放ったのは、もうかれこれ15年以上も前になる。そして今になって我々普通の生活者にも、この言葉が実感を伴って迫ってきているようである。
携帯電話、給与システム、年金、税金、保険、みんな頭のいいやつがわざとわかりにくくして、ロクに調べもしないやつから多く取ろうという仕組みにしている。つまり、お前らみたいに頭を使わずに面倒くさがっていると、一生、だまされて高い金、払わされるんだ。
僕は、家計再生コンサルタントとして有名なFPの横山光昭先生にインタビューしたことがあるが、そのとき先生が、携帯と保険について口酸っぱく言っていたのを思い出す。この二つの見直しが家計費削減の王道だという。
共通しているのは、どちらも結構複雑なシステムになっていて、自分で調べて解決しなければ言われるままに支払いしてしまいがちであり、それはいかんよ、ということだ。まさに桜木先生のご指摘通りだ。
そういえば僕らが大学生の頃は、文系の就職先として損保が大変な人気であり、給料が高いことでも有名だった。給料が高いということは要するに収益率が良いということであり、それはなぜかというと……、やはり桜木、横山両先生の言う通りだったのでしょうね。
ともあれ生活者が自分で調べずに過大な出費をしていたことは、以前であれば、おそらく日本の豊かさのなかに吸収されていたのだろう。ところが今や、日本の相対的貧困化が背景にあるのだろうが、すべての人が桜木理論を実践しなければならない世の中になっている。「自分で」調べ、考えることが、サバイバル条件になっていると言っていいかもしれない。
学歴や所属企業にディベンドしてると“恐竜”になってしまう!?
そうしたなか、象徴的な出来事があった。もちろんコロナ禍である。ここでメディアというものがまったく信用ならないことがあらためて確認されたかたちになった。メディアはことさらに危機を煽り、私たちを右往左往させたし、それで不景気を助長してしまった側面もあるだろう。
さらに保護者目線だと、よくも就活生たちの邪魔をしてくれたな、という思いがある。こういう風潮をつくりあげて、企業が採用手控えに走ったらどうするんだ(事実、一部そうなったが)、と敵愾心を抱いてしまったのである。
ただですね、そのような反感は持ちつつも、やはりメディアの影響を、とくに僕などはテレビっ子世代なのでかなり受けていると思う。トレンディドラマ(死語)が流行った頃はやっぱりあのような生活がしたいと思い、残業に精を出すなど間違った方向の努力をしていたし、一軒家に住んでRV車に乗ってキャンプに行って犬を飼ってみたいとか、そういう、いわば幸せ同調圧力が人生の大きなプレッシャーになったのもテレビの影響が大きかったと思う。まあ自分が馬鹿といえばそれまでですけど。
よく言われる「一流大学から一流企業へ」も、やはり幸せ同調圧力のひとつだ。そしてこれまではそれでもよかった。安定した会社やあるいは役所といった組織に頼って生きていくことは十分に可能だった。
ところがご存じの通り、今やそうではない。たとえその頼りがいがあると思われる企業が持続可能だとしても、それはそこに雇用される人の持続可能をまったくもって保障しないことが、もう誰の目にも明らかになっている。
今後、最もリスクの大きい生き方といえば、大きな企業など何か一つのものに適合するよう自分を特化させてしまうことだろう。
産業革命以来のパラダイムシフトが起きていると言われている。それは求められる人材の資質の変化という点で一番顕著に顕われる。
端的にいえば、AIの時代を背景に、知識型の人材に取って代わって、自分で考えるということを軸にした人間が求められ、世の中の主役になろうとしている。それは本当にパラダイムシフトと言うべきで、トランプゲームの大富豪で、今まで2が一番強くて次にAだったところ、「革命(ローカルルール)」が起こり3が一番強くなるといった、そのくらいの大転換だ。だからといって教科学力が重要でなくなるわけではないのだが、それについては後述する。
ここからはあえて「頼る」ではなく「ディぺンド」という和製英語を使わせてもらうが、これまでは何かにディペンドする、つまり一流大学という学歴にディペンドするのもよかったし、一流企業に所属しているという安定にディペンドするのもよかった。あるいは、組織の中のある特定の人間にディペンドして出世するという組織人モデルも確実にあった。ところが、繰り返すけれどもそうしたことが一番リスク含みの生き方になってしまっている。
何かにディペンドして生きるのは、ある特定の環境に最適化した身体の大きさとなり、ある日突然滅びてしまった恐竜になってしまう危険性がある。
クリティカルシンキングや自分軸という言葉が、今、学校現場ではよく使われる。クリティカルシンキングは必ずしも批判的精神ではないし、自分軸は必ずしもむやみに自分を主張しなさいということでもない。
要は自分を客観視し(メタ認知し)、その上で他者の意見を受け入れ、しかしそれにディペンドすることなく自分で考え自分で判断し、そして行動を起こし後悔しないということだ。まあかっこよく言えば、毅然と生きるということになるのでしょうね。
問題はそのような求められる資質のパラダイムシフトにあって、日本の若者たちは、対応できるのだろうかということだ。もちろん教育現場はそういうふうに動いているし、国、とくに文科省だけでなく経産省も大きな危機感を持ってさまざまな施策を打ち出しているように見える。
「生類哀れみの令」は天下の悪法ではなかった!?
と、ここで思い出すのは、徳川綱吉の生類哀れみの令である。希代の悪法と言われ続けてきたが、ここに来て再評価されているらしい。要はそれまでの殺伐とした戦国の遺風を極端な法令で一掃してしまったということだ。これがなければ、いつまでも辻斬りなどがなくならなかっただろうと言われる。本当に平和な世の中を築くために、生類哀れみの令は必要であり、これを期に社会の価値観は一気に変わった。
そう考えると、古くはオオクニヌシの国譲り、さらには件の生類憐みの令、それから明治維新、廃仏毀釈、そしてなによりも終戦ですよね、もう価値観がからっと変わってしまうことを日本人は何度も経験し、その度にがらっと変わってきたのである。日本人って案外、変わるときは、そして変わらなければいけない時はあっという間に変わることができる民族だなあと思ってしまう。
そしてこれは何も、人間一人ひとりということだけでなく、社会全体がそうであり、柔軟性があるということではないか。たとえば明治維新のことを考えてみればわかりやすい。
それまでの江戸時代の人間評価基準はといえば、家柄であり身分だった。今の教科学力や偏差値と同じと考えればいい。
しかしあのとき、そうした家柄や身分では決して歴史の表舞台に立てなかったであろう人材が続々と現われ、時代を動かし、日本という国を救った。西郷隆盛や坂本龍馬、高杉晋作、みんなそうだ。それを社会が求め許容したと言える。一方、家柄もよく、それをベースに日本を動かした人物もいる。小松帯刀や阿部正弘などがそうだろう。
これを今の時代に置き換えると、パラダイムシフトによって一気に脚光を浴びる人もいれば、学力秀才であることを生かして時代をつくる人もいる。両方必要であり、もちろん切磋琢磨も必要だ。それができるのが、今、PBLを行っている学校ということになる。
日本の若者はAIの時代に弱い、とメディアは言う。というよりも、日本はダメだ、日本人はダメだ、が、まあおおよその基調である。しかし、そうではないことは歴史が証明しているではないか。大富豪でいえば、3が一番強くなる時代にいちはやく対応できるのは、日本の若者であると確信する。少なくとも僕自身の「自分軸」で、そして保護者の一人としての希望も若干込みで考えれば、そういうことになる。