東海道五十三次は、なぜ熱田から桑名まで海路なのか。皆さんはこのことについて、考えたことがあるでしょうか。
つまり、江戸時代に整備された東海道五十三次において、41番目の宿場「熱田(宮)」と42番目の宿場「桑名」の間は渡し舟で行くようになっていたのだが、その理由はなにか、ということだ。ちなみに東海道で渡し舟が用いられたのは、この区間が唯一だったという。
中学受験対策塾でこの「問題」に出会ったのだった
僕がこの「問題」に接したのは、かれこれもう四十年以上も前、中学受験準備のために通っていた塾において、であった。
塾、といっても今の中学受験塾とはその形態は大いに異なっていて、日曜日ごとに大学や予備校を間借りしてテストを行う形式だった。名称も「進学教室」といった。
その進学教室はクラスランクによって教場が異なるシステムで、僕が所属していたのは最下級クラスだった。そのせいかどうだかわからないが、某経理学校に間借りした教室は、机が長机なのはまあ当然としても、椅子も個別のものでなくベンチ形式で、そこに野郎ばかりがぎゅうぎゅうと押し込まれていたのだった。
ちなみに、進学教室の上級クラスは“共学”であり、クラス名称も「慶応組」だの「国立組」といった小洒落たかつ小憎らしいもの(我々成績不良者からすれば)だったが、その他大勢クラスは「男子組」「女子組」の別学だった。
で、「東海道五十三次は~」は、その進学教室において毎週実施されていたテストの「社会」の最後の大問、そのまた最後の小問に設定されていたように記憶している。大問には、東海道五十三次のルートのほかに主だった山や河川や城などが描かれた図が示され、いくつかの知識を問う小問がならんだ後、いわば「トリ」のように、「図で示した通り、熱田と桑名の間には渡し舟が用いられた。その理由を記せ」とあったのだ。今でもはっきり覚えているのは、この問題の印象がよほど強く、また好奇心を掻きたてられたからだろう。
僕は昔から地図を見るのが好きで、社会の時間などは先生の話を聞くよりも副教材の地図帳を眺めている時間のほうが長いといった塩梅だったのだが、しかしその問いに解答することはできなかった。それでテストが終わった後、隣の席で、教室のぼろっちい机をどうやって空手チョップで叩き割ろうかと、手刀を入れる角度を検討するのに余念がないFくんに声を掛けてみたのだった。
「あの最後の問題、わかった?」
「最後って?」
「ほら、東海道五十三次はなんで熱田宿から桑名宿まで渡し舟になっているかっていう……」
「ああ、あれか。(名古屋に)城があるからじゃね?」
確かに、熱田は名古屋の手前(現在の東海道線の駅でいえば、名古屋駅の三つ東京寄りの駅が「熱田」駅)だから、そこから湾の対岸にある桑名まで海路を取れば、名古屋城下は“スルー”することになる。つまり、徳川御三家のひとつ、尾張藩の居城である名古屋城下に街道を通すのをはばかったんじゃないか、というのが彼の推理(?)であった。
当時のFくんが、尾張藩の徳川宗春と将軍・吉宗の確執を知っていたとは到底思えないし、そもそも東海道五十三次が整備されたのはその時代よりも百年以上前である。ただ幕府が、宗春の治世によってもたらされた名古屋城下の繁栄を妬み、ことさらに妨害しようとしたのは歴史的事実だから(それにしても『暴れん坊将軍』などで「黒幕は尾張大納言か」などと宗春が一方的に悪役にされているのはどうも納得がいきませんな)、今考えると、Fくんは存外に正確な推理をしたとも言えるかもしれない。だがそれは正解ではない。僕も当時、訊いておいてなんだが、それは違うんじゃないかなあ、といまひとつ納得がいかなかった。
大人になってからも、ときどき思い出してはいたのだが……
もちろんテスト会なので、この問題についても翌週解説があったはずなのだが、それはまったく覚えていない。もしかしたら翌週は塾をさぼったのかもしれない。というのは、僕は小6後半時点でVANやらニューシネマやらロックやらといろいろ目覚めてしまい、受験勉強からは完全に心が離れてしまっていたからだ。
そして当然、中学入試にも失敗したが、しかしその「東海道五十三次は、なぜ~」問題は、なんとなく心に引っかかっていて、それからというもの、1年に一度くらいは、あれはどういう理由だったんだろうなあ、と思い出していた。
90年代になって、インターネットというものが普及(最初はパソコン通信だったが)すると、ニフティのフォーラムで質問したり、また検索エンジンが出現してからは、それこそ「ググったり」していたのだけど、どーもこれといった解答は見つけ出せないでいた。ただ、それは20年ほど前の話なので、今なら、ググればすぐに解答を見つけることができる。が、皆さま、もしよろしければ僕に、昔の推理小説ばりに、こんなふうな宣言をさせてください。
私は読者に挑戦する! 推理する条件はすべて揃っている。願わくば、この「東海道五十三次は、なぜ、熱田から桑名まで海路だったのか」という謎を解かれんことを!
知識だけでは答えられない問題を出す学校
この問題は、今考えれば麻布中の入試問題ではなかったかと推測する。テスト会たる進学教室は、これは今の進学塾でもそうだが、有名中の入試問題から「これは」というものを集めて、あるいは一部アレンジして自前のテストを作成していた。
ところで今、中学入試において、思考力テストというものが注目を集めている。知識を問うのではなく、受験生が自分でその場で考えて解答するタイプの入試が一部の学校で導入されはじめた。ただし麻布のような名門校は、大昔から思考力テストを出題していたと言われているし、この問題もそうだったのだろう。そういえば麻布は数年前にも、バブル時代に計画されたという東京湾の真ん中の人工島ほかの計画図を示し、計画の是非を問う問題を出していた。
そして僕が「私は読者に挑戦する!」と、失礼ながら大上段に「挑戦」したのには理由がある。推理小説で「読者への挑戦」をするときは、推理材料をすべて提示するのがお約束だが、この東海道五十三次に関する問題も同じ構造を有している。知識がなくても、与えられた情報から“推理”すれば、答えに到達できるのである。小6生であっても、である。先に問題に地図が示されたと記したが、この原稿ではその地図を示すことはできないから、江戸川乱歩賞応募歴二度(笑)の筆者が文章のなかに“推理のための情報”を盛り込んでおります。
ちなみに僕らの世代の場合、小6当時は爆発的な切手ブームで、広重の東海道五十三次のシリーズ切手は非常に美しく人気もあってそれを手にするのは羨望の的、といった状況だったので(なかでも「桑名」は「箱根」や「蒲原」と同様、人気絵柄で値段も高かったと記憶している)、東海道五十三次に関する知識は、今の小6よりもよほどあったと思われる。が、それでも残念ながら僕やFくんはこの問題に歯が立たなかった。知識だけでは、答えられないということだ。
体験的学びを経験した子には簡単!?
では、「解答編」(?)である。
僕がこの問題に関する解答を見つけたのは、新幹線の車内だった。新幹線は下りだと名古屋を発車するとすぐ、木曽川、長良川、揖斐川と、滔滔と水が流れる三つの一級河川を渡る。こんなところに続けざまに大きな鉄橋を架けなきゃいけないのは大変だよなあ……、と、車窓の外を眺めていたとき、「ハタ!」となったのだった。そう。東海道五十三次が熱田から桑名まで海路なのは、陸路ではこの三つの大河に行く手を阻まれるからだ。調べてみると、やっぱりそれが定説だ。当時は大河に架橋する技術はなかったし、また三つの河川はしばしば氾濫して平野を泥地としたから、そこに大きな街道を通すのは物理的に難しかったのだ。むろんこの問題の正確な解答を見たわけではないが、ただ小6相手の中学入試問題としては、「三本の大きな河川を越えるのは困難だったから」でいいだろう。
僕がそれに気づいたのは、わりに最近のことである。それまで百回以上、新幹線でこの三つの川を渡っていたというのにまったく思い至らなかったのは情けないが、とにもかくにもそのとき僕は「体験学習」をしたし、このような「体験」で、長年、擁いていた疑問が氷解したときの気持ちは本当に格別だった。だから僕は、体験重視の学習の導入で、好奇心をかきたてられ、そして謎を解明できるであろう「これから世代」が、うらやましくて仕方がないのである。
もっとも大井川の場合は、上流にダムがたくさんあって水量が極端に少なくなっている今現在の様子を見て「なんで江戸時代の人は、こんなしょぼい川に苦労していたのか」と疑問を呈した高校生もいたというから、体験学習もなかなか難しい一面があるようですが……。