「This is a pen」の効用

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リンボウ先生に揶揄された「This is a pen」

英語を勉強するときに教科書で初めて出てくる例文は、「This is a pen」とされている。もちろん今は、会話文を最初に教えるなど様相が変わってきているのではあるが、「This is a pen」の時代は長らく続き、そしてそれはしばしば揶揄の対象になってきた。

たとえば、リンボウ先生こと林望氏のエッセイ「これは本です」(『リンボウ先生のへそまがりなる生活』に収録)には以下のような一節がある。

 This is a pen.これはペンです。

I am a boy.私は少年です。

さて、日常の生活で、目の前のペンをさして「これはペンです」なんてことを言う場合があるのだろうか。はたまた、実際の男の子がおのれをさして「私は少年です」なんていう必要がありうるだろうか。

こうしてみると、これらの文章はどこにもありえない奇ッ怪千万な表現だということが分るに違いない。ところが、日本の英語教育というものは、そういう不可思議な例文を何の疑問もなく暗唱して、それで英語を勉強したつもりでいるのである。そうではないか。

「そうではないか」と、リンボウ先生は読者に対して共感を求めているが、はたしてそうなのだろうか?

ここでは、リンボウ先生の「This is a pen」論打破を試みたい。その手始めとして、大変恐縮なのですが私事を語らせていただく。

THIS IS A PEN

こんなのがあるんだそうです。京都「恵文堂」のウェブサイトより。

英会話喫茶というものがありまして(懐)

僕は大学3年の時点で英会話の勉強をはじめた。理由はといえば、「憧れの英ペラになりたい(そしてできればモテたい)」という素朴な思いもあったのだが、一番大きかったのは当然ながら就職のためだ。大学2年修了時で「優」が二つしかなく、さすがにこれではお先真っ暗だと考え、その解決を英会話力というものに求めたのである。

僕らの学生時代は、街に英会話喫茶というものがあった。今もあるようだが、高田馬場でしか見ない。僕は恵比寿のそれによく通っていたので、当時はいろんな街にあったということだ。

どういうシステムだったかといえば、コーヒー一杯が800円といった具合に当時としては異常に高価である代わりに何時間粘ってもよく、そこにやって来る外国人とご自由にご会話くださいというものだ。日本語は基本的に禁止で、外国人はコーヒー代がタダだったと記憶している。そういう非常にアバウトなシステムだったので、宗教の勧誘の場にもなったりもしていたのだけれども、純粋に(?)日本人に英語を教えてあげたいという外国人も結構いて、ここに半日もいれば、かなりの量の会話ができた。また、お客の中には外資系企業に勤務する(日本人)OLも多く、そういうオネエサンたちと会話できるのも、男子学生には大きな魅力だった。

このような英会話喫茶のほかにも、もちろん一般的な英会話教室にも行った。かなり真剣だったのである。

が、結論から言ってしまえば、就職に際して必要になるのは英検の級やTOEICのスコアに裏打ちされた英語力であり、“嘘は書いてないが誇張してない部分はひとつもない”といった性格を有する履歴書の特技の欄に「英会話」と書いてもまあ嘘にはならない程度の英会話力は屁の突っ張りにもならないことが、就活途上で分かったのであった。

ともあれ、英会話喫茶や街場の英会話教室では最初に覚えた(習った)のは「This is a pen」ではなく、「Could I ~」や「I’d like to ~」といったきわめて実用的なフレーズで、その使い勝手のよさに英語というものがとても楽しくなってしまった……、というふうに言うと、「This is a pen」に対して「Could I ~」の圧勝のようだが、そういうことでもない。

つまり、こうした僕が学生時代にやったたぐいの英語は、山登りでいえば、ハイキングするための訓練みたいなものだろう。ひるがえって「This is a pen」は、チョモランマ登山、が大げさならば、冬の槍ヶ岳や穂高に登るための地図の読み方の第一歩といった性格を有している、と考えていいのではないか。

英語学習はコミュニケーションのためのものじゃない!?

ここで、話は大学共通テストのことにつながる。

民間試験の導入先送りでなにかと物議を醸している、大学入学共通テストの「英語」だが、そもそもなぜ、民間試験を導入するかといえば、ご存じのようにスピーキングである。従来のセンター試験をはじめとするテスト形式ではテストできないからだ。だが、そのスピーキングが英検を迷走させ、それも民間試験先送りの一因になった(ように見える)ことは皮肉といえば皮肉ではあるが、ただ、もともとの考え方としてはそうだった。

つまり「英語が使える日本人」育成の方策を、大学入試まで拡大しようというものだ。しかし、これに当初、東大や京大など、いわゆる学術系大学が背を向けたのも、「英語は使えればいいってもんじゃない」という考え方が根本にあったからだろう。

で、「This is a pen」なのである。

もともと日本の英語教育は、英語で書かれた、たとえば保険の約款であったり外交文書を正確に読み取り、社益や国益を守ることを目的としていた。むろん、社益はともかく国益を守る仕事に従事する人間など、全体からすればわずかであったろう。しかし国や自治体が税金を使って英語教育を行うのならば、それでいい。中1の時点では、すべて中1生のうち、誰が将来、外交官だとかになるかわからない。しかし何千分の一の確率でも、そういう可能性がある限り、外交文書などを一字一句正確に読み取る能力を育てる必要があり、その一里塚が「This is a pen」ということになる。

と、もっともらしいことを書いてしまったが、実は「実用論」的にも「This is a pen」の効用はある、と思う。

ところで皆さん、私立大文系学部の一般入試が英国社の三教科であり、しかも英語の配点比率が、たとえば「英語200点国語100点社会100点」といった具合に異常に優遇されていることを不思議に思ったことはありませんか。

むろん今だったらグローバル化の時代でもあるし、こうした状況は「そりゃ、これからは英語が大切だからね」というふうに、すんなり理解できる。しかしながら英国社の三教科入試における英語の加重配点は、戦前――一生で一人の外国人とも接しない人が大部分であった時代から行われてきたものらしいのだ。なぜだろうか?

これは、英語能力を見ることで、すべての(教科の)能力がわかるという信奉、あるいは真実が、学校・先生業界(?)にあるからだ。受験生サイドから見れば、英語を学ぶことは頭の中身を総合的に鍛えていくことでもある。そしてこうしたことからも、「This is a pen」が必然であることがわかる。

そりゃそうだ。街場の英会話教室で英会話の学習をして数学の成績が上がったなんて話は聞いたことがないが、「This is a pen」の英語に真面目に取り組めば、それは数学力も開発してくれるのである。少なくとも、学校・先生業界では、そう信じられている。

「This is a pen」をあなどるなかれ、ということらしいですよ。

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