AI自動翻訳時代に、それでも英語を学ばなければならない理由

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英語民間試験導入見送りはなぜ?

先日、2021年度入学者を対象とした大学入学共通テストにおいて、英語の民間試験の導入を見送るとの発表があった。

その前からも、大学入試改革のうち、共通テストの英語に関しては混乱が続いてきたのもご存知の通りである。

従前より東大、京大、名古屋大、東北大、北大という旧帝大7校のうち5校が、とりあえず2021年度入試においては、英語の民間試験を「用いない」(正しくは「受けてもいいし受けなくてもいい」)とし、さらには一橋大、東京医科歯科大もこれに続いた。一方、これら大学を除くほとんどの国公立大が「活用する」と発表。このように態度が分かれたのは、なかなか興味深かった。

大学入試センター

大学入試センターも頭が痛い?

そもそも共通テストにおいては、従来型問題か民間試験かのどちらかを選んで受験(受検)するというのが当初の構想だったはずだ。しかし一昨年の11月に、国立大学協会が、国立大受験者については「両方受けなさい」という指針を打ち出したところ、冒頭で述べたように旧帝国大のうち5校が「用いない」とし、叛旗を翻したかたちとなっていた。

このことについては、京大学長が国大協の会長であった(当時)ので、「どーなってるの?」という印象も強くしたのだが、教育評論家で『ルポ東大女子』などの著書で知られる、おおたとしまさし氏は、「いまさら大学入試改革の規定路線をひっくり返すことは難しい。しかしこのままではまずい。自らがいち早く態度を表明することで、他大学の方針に少しでも影響を与えられれば」(2018年8月30日BLOGOS)と、その「本音」を推測している。が、結果的にその既定路線がひっくり返ったかたちとなった。

日本人が英語が話せないのは理由があった!

ともあれ、もともと「日本人の英語」は、いわゆるエリートたちのためのものだったから、国家間の条約締結なども含め、外国と取引するための約款などを誤謬なく読みとくことが重視されてきた。その「系譜」をここまで引きずってきたと言える。

よく「日本人は中高大と英語を学んでも話せるようにならない」というふうにずーっと言われてきたが、それは当たり前で、英語教育の出発点が話せるようにするためのものではなく、その原点を日本の学校教育が守り続けてきたからだ。

一方、英検やGTECに代表される民間試験は、もちろんそれぞれの試験ごとにその性格は大きく異なるが、一応は「コミュニケーションのための英語」というふうに規定してもいいだろう。

それが証拠に(?)、民間試験は「CEFR」という指標で、相互に得点調整されることになっている。CEFRは、日本では各民間試験間の調整指標というふうにとらえられていて、実際の大学入試ではそのように用いられるのではあるが、ただしそれが本質ではない。CEFRレベルは上にいけばいくほど、単なる語学能力ではなく、「他者に伝達する」という点において非常に高い正確性と抽象性が求められる。日本人の場合、英語だけでなく、日本語能力、さらには論理的思考力も問われるのである。

CEFRとは、世界中の優秀な若者が今後、世界の繁栄が続くよう、そして貧困などの諸問題を解決するために「協働」していくための能力指標とも言える。CEFRという概念を全世界の若者が共有することは、大げさに言えば、「バベルの塔以来(=それ以前は、人類は共通言語を使っていたと旧約聖書は記している)」の大革命なのではないか。

さて、それではなぜ、旧帝大の多くが民間試験に「背を向けた」かたちとなり、結局は「見送り」になったのだろうか。その理由についてのコメントを集約すると、やはり「保護者の所得や地域格差などによる民間試験の公平性が担保されていない」になる。

「普通の人」のための「コミュニケーション英語」はどうなる?

さらに言えるのは、今後は、「読解英語」「文法英語」こそ英語としてその重要性を認めている大学と「コミュニケーション英語」こそ実践力とする大学とに、ゆるやかに分化していくであろうことだ。

繰り返すが、もともと英語はエリートのためのものとして始まった。だから「誤謬なく」が最優先であった。そしてそれを、すべての中高大生に拡げていったため、「何年も勉強しているのに英語が話せない」という事態に至ってしまった。そこをなんとかしようというのが、大学入試改革、そして民間試験による英語4技能検定の導入であったわけだが、だからといって「エリートのための英語」の重要性がなくなるわけではない。

それでは「普通の人」のための「コミュニケーション英語」は、どうなっていくだろう? これについては、その部分をAIが代替していくことは間違いない。コミュニケーションレベルの自動翻訳はAIが得意としている分野と言われる。実際、ポケット翻訳機は急激に進化普及しているし、海外での修学旅行を経験した中高生のなかには「スマホがあれば英会話に困ることはまったくなかった!」という感想を持った人もいるだろう。

では「普通の人」にとって、つまりコミュニケーションとしての英語を使いたい人にとって、英語学習は必要ではなくなるのだろうか。ちょうど明治期のように、英語を学ぶことは、エリートだけの専管事項になってしまうのだろうか。

このことについて、僕はこれまで何人かの学校教員や塾講師に質問してきた。そのなかで印象に残っている答えがある。

「これからの子どもたちは、外国人と将来の運命を分かちあう人間関係を築くことも多々あるでしょう。そうしたときに、スマホなどを介したコミュニケーションで真のパートナーシップ、真の友情を築くことができるでしょうか。第一、それじゃ、コミュニケーションとして楽しくないでしょう。楽しくないということは、やりたくないってことです」

これは非常に示唆的なコメントだと思う。もちろん塾講師としての、いわゆるポジショントークの側面はあるだろう。ただ「楽しく」というのはポイントになるのではないか。

今、「学び」は「楽しい」方向に進化しつつある。その手法としては、アクティブ・ラーニングになるのだろうが、コンセプト的には、「楽しくすることで学び効果をアップしていこう」というものだ。そして英語の場合、学びの上での「楽しさ」がコミュニケーションの楽しさにつながっているのがやはり重要なことだ。

実は英語は、一番、モチベーションが高まりやすい学びだ。

他の教科だったら、学びの最大のモチベーションはやはり「いい成績を取る」だろう。よく言われるように、微分を学んでも、それを実際に役立てるまでには、さらなる勉強が必要だからだ。したがって高校レベルでの「成績」とは、本当に役立つ学びの「一里塚」である。しかし「一里塚」の達成感は、本当に役立つこと、つまり「登頂」よりもかなり小さなものになってしまう。

その点、英語は、高校だろうが幼児教室だろうが、学ぶことイコール「登頂」だ。レベルがどうであれ、外国人に対して「通じる」という「登頂」を味わうことができる。後は、ハイキングレベルでいくか、ヒマラヤ登頂を目指すか、という違いでだけで、達成感の大きさは変わらない。そこが英語という学びが、他教科と決定的に異なるところだ。

またなにしろ「英ペラ」はかっこいいし、モテたい男子(女子も?)にとって最高のモチベーションだ。それがこれからは、学校という場でおおっぴらにできるのである。モテるための行動を学校でできる! 嗚呼! なんと素晴らしいことだろう!

それと関連して、語学を学ぶことは、自分に積極性をもたらしてくれるという点も見逃せない。「日本語で言えないことでも英語では言える」と、よく英語学習者の口から語られるが、もうひとつの言語を手に入れることは、もう一人の自分を手に入れることでもある。そして、そうしたことがもたらしてくる、というよりも駆り立ててくれる自分のなかの「何か」(これは「積極性」という平易な言葉では到底表わしきれませんね)が、これからの世界を生きていくためには絶対に必要なのである。

とまあ、こんなふうにぐだぐだ書き連ねてきたけれども、「何か」を持っている人は、本能的に英語を学びたいと思うのでしょうね。そして重要なのは、そうした熱いエモーションに、これまで学校教育は必ずしも応えるかたちになっていなかったが、ここに来て学校教育のベクトルの向きも一致してきている、ということである。いい時代ですねー!

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