オタク的知的好奇心が世界とつながる
2019年は、国際周期表年なんだそうである。メンデレーエフが元素の周期律を提唱して150年目にあたるという。
いやはやしかし、地球上に存在する物質には性質の似たもの同士があり、それはどうも物質の原子の周りを回っている一番外側の電子の数で決まるらしいということに思い当たり、さらにそうした「律」を表化してしまうとは、まったくもって並みの学問じゃありませんな。そして、たとえば水素とリチウム、ナトリウムという一見まったくの別物の物質に共通する性質(爆発する?)を与えたことに、文系脳としてはやっぱり神の摂理を見てしまうのである。
とまあ、そんな周期律のロマンは当然ながら中高生にとってオタク知的興味の対象になり、それが秀才頭脳と結びつくと大それたことも引き起こす。九州の名門・久留米大附設が作成した独自の原子番号時計と周期表扇子が、パリのユネスコ本部で行われた「国際周期表年IYPT2019」の開催式典で紹介されたのだという。日本の中高生恐るべしであり、こうしたオタク的知的好奇心が否定されることなく、世界とつながってしまうのが名門校というものなのだろう。
国際周期表年といえば、日本のテレビなどではこれに関連して「ニホニウム」のことがよく取り上げられている。ご存じの通り、九大の森田浩介博士率いるチームが発見した113番目の元素であり、日本人によってはじめて発見(生成)された元素でもある。だから「ニホニウム」なわけだが、これまで国名が冠された元素にはあのキュリー夫人が発見した「ポロニウム」や「フランシウム」などがあり、その仲間入りをしたのは、やっぱり日本人として誇らしい……。「だからといって『日本人すごい→俺すごい』にはならねーぞ」という意見もあるけれども、いいじゃないの、ねえ、そのくらい。むしろそうしたメンタリティのほうが、「グローバルスタンダード」であると思われる。
なぜ、113番目の元素は「リケニウム」にならなかったのか
さて「ニホニウム」だが、この名称に決定するまでは、いくつかの候補があり、「リケニウム」というのもひとつの有力候補だったという。森田博士は理化学研究所においてその生成に取り組んでいたからだ。
「リケン」は、日本が世界に発信すべきブランドであったと言える。もし、113番目の元素が「リケニウム」となれば、「リケン」は、かつての、後で触れるが野口英世の研究をバックアップしたロックフェラー研究所のような、科学の世界での一大ブランドとなるだろうし、それは「科学立国・日本」の象徴としてなっただろう。
ただ、実際はそうはならなかった。なぜかといえば、やっぱり「小保方さん問題」が影を落としてるのかもしれないなと、僕は「ニホニウム」決定のときに思った。これらよって理研は一度、国の肝いりの事業である特定国立研究開発法人への移行を見送られた。
小保方さんも理研に籍を置いていた。そして事件が起きると、小保方さんが所属する再生研を全面的に改組した。つまり尻尾切りをしたわけで、理研という組織もなんだかなあというのが、一般人であるところの僕の素にして朴な感想ではあった。なんだかハシゴの外し方がえげつないようにも感じたのだ。
まあそれはともかく、そもそも「理」の分野は、「文」と異なり、捏造ということがきわめてしにくい世界だ。一人の科学者がなんらかの嘘をついたら、世界中の科学者によって検証され、それが暴かれてしまう。「理」は、昨今のSTEAM教育などでもわかるように、世界共通語だ。だから「小保方さん事件」はその通りになったわけだが、それにしても、いったんはそれが通用しそうになったわけで、このあたりも非常に不思議なところだ。
小保方さんと野口英世の相違点は?
と、そんなこんなの「小保方さん事件」当時、僕は、野口英世事件というものを思い出していた。野口英世が成功したされる、世界初の梅毒スピロヘータの純粋培養についての「疑惑」である。
ご存じの方も多いと思うが、梅毒スピロヘータの純粋培養は、野口英世が世に出た最初のティピカルな「功績」だった。そしてこれ以降の野口の業績は、もちろん専門的にいえば、そりゃいろいろあったのだろうが、一般受けする大きなものは、黄熱病の研究しかない。ただ、これも単なる「研究」であって、黄熱病ウイルスを特定したわけではない(この点について、野口の伝記本では、野口の時代の光学顕微鏡の限界であったというふうに説明されている)。
ともあれ、最初の梅毒スピロヘータの純粋培養が、「たいへんよくできました」であれば、黄熱病の研究は、「よくがんばりました」だろう。「よくがんばりました」が評価されるのは、その前段階の「たいへんよくできました」があればこそ、だ。もし、野口英世が梅毒スピロヘータの純粋培養に成功したと認められなかったら、その後の研究成果や、黄熱病に対する取り組みはここまで評価されなかっただろう――野口英世は、世界の一流国家たらんとするその当時の日本の、国威発祥とも関係していると言われている。つまり、「野口英世すごい→日本人すごい→俺(=日本人全員)すごい」を国家が演出しようとしていたのである。が、しかし、それとても、梅毒スピロヘータの純粋培養という功績がなければ、なかなか持ち上げにくかったと思われる。
ところが、である。これもよく知られているように、「たいへんよくできました」であるところの梅毒スピロヘータの純粋培養は、現在では、野口方式では不可能とされている。
だから梅毒スピロヘータの純粋培養は捏造、というわけできないだろうけれども、それに近いものだったのかもしれない。野口英世には、功を焦る傾向があったということも、今ではよく知られている
この野口ケースを、小保方さんに当てはめてみたらどうだろう? というのが、本稿の趣旨であります。前置きが長くてすみません。
もし、もしもですよ、小保方さんの最初のSTAP細胞発見という功績が、素直に認められていたとしましょう。そしてそれ以降、STAP細胞ほどの衝撃度はないにせよ、彼女が順調に研究成果を積み重ねていたとしましょう。そうした過程において、彼女の最初の業績であるSTAP細胞の存在が否定されたとしても、そりゃ大問題にはなるだろうが、その後の業績は否定されることはないだろうし、研究者としての命を絶たれることもないだろう、とは、野口ケースを見ても想像がつくのである。極端な話、デビュー戦は、捏造でも構わないというふうにも思える。捏造の上に築かれるものもまたあるのではないか。
ただ、個人的なことを言えば、野口英世のデビュー戦にして最大の功績であると当時された梅毒スピロヘータの純粋培養が、捏造とはいえないまでも、疑惑があると知ったときは――それは確か、渡辺淳一氏の著作『遠き落日』によってだったと思うが――つらかったなあ。というか、やるせなかった。
というのも、僕が生まれてはじめて読んだ、“字だけの本”が、野口英世の伝記本で、それに非常に感動したからである。
「デビュー戦を飾らせる」のは保護者の役目?
そして、その野口英世の伝記本は、小学校2年のときの読書感想文の課題図書でもあった。それを題材に読書感想文を書いたのだった。僕にとっては、生まれてはじめての「作文」だった――という言い方は正確ではない。正しくは、母親に書いてもらったのだった。
別に頼んだわけではない。母親が「私が書いてあげる」と強引に著述権(?)を奪い取っていったのだ。つまり、母親は、押しかけゴーストライターを買って出たのだった。だいたい僕の母親は昔から、異様に国語好き、読書好き、著述好きだ。80歳になんなんとする今でも、毎朝、天声人語を書写しているし、「東進の林先生の現代文受講に申し込む!」とやにわに言い出して、周囲を恐慌に陥れたりもしている(実際には、林先生の講座は、市井のおばあちゃんが受講することは不可能らしいです)。
であるから、子どもの課題を取り上げて自分が「著述」してしまうのは、朝飯前だったのかもしれない。
で、その読書感想文で僕は表彰されたのでる。かなり大きな賞だったようにも思う。今でも仕事部屋のどこかには、埃をかぶったその賞の楯があるはずだ。しかし、それにしても、親が書いたことくらいわかりそうなものなのに、なぜか賞をもらった。あるいは、母親が巧妙に小学校2年生ふうにしていたのかもしれぬ。恐るべき、ワルである。
で、そこからどうなったかというと、僕は学校で「作文がとても上手」という評判を取ってしまったのだ。そして、僕も、そんな評判になんの裏づけもないのはわかっていたのに、なんだかその気になり、自分に暗示をかけてしまった。恐るべき、バカである。
ただ、そのことが、ひとつのきっかけになったのは事実だと思う。つまり、なんの取り柄もない僕に、まあ大げさに言えば、人生を切り開いていけるような武器をもたらしてくれたのではある。その結果、今、僕はこうした仕事をしている。それがよかったのかどうかはまた別の問題であるけれども、そのきっかけが、「捏造」読書感想文にあったことは事実といえるような気もする。つまり僕は、そこで人生最初の(もしかして最後の?)成功体験を得たのだった。
僕は大学卒業後は、広告代理店に営業職として就職したのであるが、広告入稿作業さえろくにできず、あと三十分で入稿締め切りという状況で、「添付写真、持ってくるの忘れました!」(当時はデータ入稿ではなく、写真入稿は紙焼きまたはポジが必要だった)と叫んでしまうような、恐るべきダメ社員であった。にも関わらず、社内では、「制作でコピーライターやらせてください」と、わりにマジで、上層部に懇願していた。
その時点で僕は、ライターとしての専門の教育を受けたわけでもなく、自分でコピー(らしきもの)も、一度も書いたことがなかった。にも関わらず、自分がライターとしてやっていけると確信していたのは、やはり、小学校2年生のときの賞受賞、そして、それによって得た自信ゆえ、だと思うのだ。
ただし僕の母親が、そうした高尚な理念があって、そうした行為におよんだとは、とても考えられない。彼女の場合、単純に、自分の「発表の場」を子供の読書感想文に求めたということ、ただ、それだけであろう。
しかし、結果的にその捏造は、僕に自信を与えてくれ、なんとなく進むべき道を示してくれたように思う。
と、小保方ケース、野口ケースを眺めながら、こんなふうなことをつらつらと考えてしまったのだけど、デビュー戦を、捏造でみなんでもいいから飾らせてあげて、それを成功体験にするというプロデュースができるのも、保護者だけであることは事実だろう。なにしろ保護者は理研と違って、わが子をハシゴを外すことなど絶対にできないのだから。