「集まって学ぶ」の意味と意義があらためて問われた
新型コロナウィルスの影響で、多くの学校が休校になった。そして、いわゆるオンラインでの学びが実施された。そこであらためて考えたのが、オフラインの、スクールという形態が有する意味である。
スクールとはもちろん「学校」だが、「集まって学ぶ場」というふうに規定される(語源は別にある。後述)。だからスクーリングは「学校に行って学ぶ」である(主に通信制でのそれを指すが、ここでは広義の意味で使わせていただく)。
そして今、スクーリングの意味が、あらためて問われているのではないか。コロナ禍のなか、スクーリング、すなわち実在している学校で行われることが変わろうとしている。
もともと、なぜ学校という形態が必要であったかといえば、情報伝達などで生徒たちを一箇所に集めることが非常に効率がよかった、というのも大きな要因だ。しかし今回、「必ずしもそうじゃなくてもできるでしょ」が、あらためて確認されたかたちとなった。
また、そうした点では、社会人の方が一歩先に経験したかもしれない。いわゆるリモートワークである。で、ご存じの通り「会社なんか要らないんじゃね」というふうにもなりつつある。会社の意味が、学校よりも一歩先に問われているのである。
少なくとも無駄な会議や無駄な飲み会は「無駄だ」という機運(?)は盛り上がっている。ポストコロナではこういうことは少なくなっていくと思われる。先進的な企業であればあるほど、だ。
では、学校はどうだろうか。スクーリングは必要だろうか必要ないだろうか。今後、どのように変貌していくのだろうか。
ここで注意しなければいけないのはICTを介したスクーリングもあるということである。オンライン授業でも他社の意見を聴き、また一対一だけでなく大勢参加して学ぶことは十分に可能である。
歴史が証明する「押し合いへし合い」の重要性
では、と、再び問う。スクールという形態が今後も必要だとするならば、それはどうしてなのか。
結論から言えば、思春期の青少年が集まり、大勢の他者と触れ合い、反発しあい、そして理解しあう……というといかにもきれいごとみたいだけれども、要は大勢で押し合いへし合いしていくことは成長過程には絶対に必要であり、これはAIの時代にあっても変わらない、ということだ。ICTを介したスクーリングでは、「押し合いへし合い」ができない。
むしろ、AIの時代だからあらためてその重要性が確認されていると言ってもいいかもしれない。スクールは、AIには遂行できない能力を育てるもの、すなわち非認知能力を育てる場であるからだ。
非認知能力とは本誌でも度々取り上げているが、成績では図ることのできない「生き抜く力」と規定できる。それにはもちろんコミュ力も含まれるだろうし、協調性や受容性、あるいは根性のようなものも入ってくる。さらに自分を客観視できる能力――メタ認知力などは非認知能力の最たるものだろう。AIの時代を人間が生き抜くためには、これが重要だとされている。
そしてそれは他者との「押し合いへし合い」で育てられることが、非認知能力という言葉がない頃から伝統的に認識されてきた。
たとえば長州藩がなぜ明治維新の主役になれたかといえば、一つには松下村塾の存在がある。武士でなくても志を持つ若者が切磋琢磨する「場」があったのだ。松下村塾は私塾だが、藩校がその機能を果たした藩もあった。
松下村塾は僕も行ったことがあるけれども、その小ささに驚く。こんな小さな塾が日本を変えたのか、とやっぱり思ってしまう。「スクール」おそるべし、である。
また古代ギリシアのスパルタでは、すべての子どもが親元を離れ、一定期間集団で暮らすことが義務付けられたという。ま、スパルタ教育というやつですね。それは戦士になるための洗脳といった側面ももちろんあっただろうけれども、こうしたなかで非認知能力が養われていったこともまた事実だ。「一人前」になるための通過儀礼だったのだ。
このような事例は、それこそ世界の歴史のなかで多数あっただろう。
有為なる青少年が一定期間、集団生活をすることは、成長において必要不可欠だと人類は経験則的に知っていた。
だから会社という形態が今後あまり意味のないものになったとしても、学校、スクールという形態がなくなることは、人間が社会的動物である以上、ないだろう。
コロナでもたらされた「スコーレ」で何をするか
さて現代における「スクール」は、やはりアクティブラーニングの実施という点で大きな意味を持つ。
今、他者の知見を共有することで自分の知見を育てるという姿勢が、人類にはあらためて求められている。以前もこのコラムで書かせていただいたが、他人の技をすべて取り入れ、自分のものにしてしまう大空翼くん的スタンスを、すべての若者に対して、世界と時代が要求している。翼くんは、いわゆる「パクリ」ではない。オープンイノベーションというやつだ。だから翼くんも仲間やライバルもそれを責めたりしない(まあそういうストーリーの漫画だから当たり前といえば当たり前なのですが)。ひねくれ者のライバル、日向小次郎くんでさえ、その姿勢を賞賛するのだ。
たとえば今の探究学習では、SDGsについて考え、誰かが卓越した解決手法を提案したとしたら、それをたたき台にさらにたたき、よりよい解決法にブラッシュアップすることが求められる。これは先にあげた非認知能力を育てる過程でもある。
そしてスクールという存在は、そうしたことができる唯一の場といってもいい。これこそが、現代のスクールに求められる機能だ。
さて「スクール」という言葉は、「集まって学ぶ」という意味ではそもそもはなかった。ご存じの方も多いと思うが、語源は「スコーレ」である。ギリシア語だそうだ。ではスコーレとは何か。これは「暇」という意味らしい。つまり暇があるから人間は学問というものに取り組みだしたということだ。
狩猟社会から農耕社会へと移り、農産物を富として蓄積できるようになった。そして一日中働かなくても食っていけるようになった。じゃあ余暇を使って学問でもしてみようか、と。それが人類の文化と文明を発達させたという。
いやいやいや、しかし暇があるから勉強しようなんて、ほんとに昔の人に頭が下がりますな。その恩恵を当然ながら我々も受けている。
そして図らずも我々は今、新型コロナウィルスによってスコーレを与えられたのかもしれない。これは生徒学生もそうだろう。もちろんオンライン授業などによって授業は受けた、受けているにせよ、おそらく今までとはまったく違う時間があったはずである。ここで何をするのかによって、将来が決まってくると言ってもいいのではないか。
その「何か」とは、もしかしたら押し付けじゃない自由な勉強なのかもしれない。昔の人(学問を始めたのは古代エジプト人と言われている)のように、暇にあかせて興味の赴くままに学問することなのかもしれない。
実は今回、ニュートンのことが取りざたされもした。ニュートンは17世紀のペスト禍で学校(ケンブリッジ大)が休校になったとき、暇にあかせて研究し万有否力を発見したという。「ニュートンの創造的休暇」というやつですね。その顰に倣うことが、有為なる若者、いや有為ならぬ大人にも要求されているとも言えるだろう。
生徒からしてみれば、今まではスクールから与えられるものを受け止めるのがせいいっぱいで、たとえば宿題をやるのがせいいっぱいだったりして、スコーレがなかったのが実際のところであったと思う。しかしコロナによって、学びの世界にもパラダイムシフトが起きた。
今後は自分に与えられたスコーレをどう使い、スクールでしかできないことに傾注する……というのが理想である。そしてきっと、現代のスクールはそのように仕向けてくれるのだろう。