「人間ならでは」で本当にAIに勝てるのか
「AIの驚異」あるいは「AIの脅威」ということが、ここに来て声高に語られるようになった。IBMのコグニティブシステム「ワトソン」を使ったサービスやソフトウエアの関連売上高が年1兆円に達したというし、またあいもかわらず、囲碁や将棋の世界では名人対AI名人の「対決」がさかんだ。そういえばAI名人の棋譜が公開されたところ、それは人間の頭脳ではとうてい考えつかないものであったいうニュースもあった。シンギュラリティ(AIが自ら進化をはじめる技術特異点)も近いと思われる。
そうしたなかで僕が個人的に注目した、というよりも衝撃的だったのはやはり舞浜東京ベイにオープンした「変なホテル」だ。いろんなメディアに取り上げられたし、体験宿泊記の類もネット上に数多く掲載されたから、行ったことがなくても、その様子は手に取るようにわかった。本当に簡単に言ってしまえば、要は接客のすべてをロボットが行い、そのレベルはかなり高い、というものだ。本当に簡単ですみません。
しかしこのことは、大変なことのように思われる。僕などは大昔に立教大社会学部観光学科を受験したことがあるからなおさらだ(落ちましたけどね)。というのは、ホテル業界はホスピタリティ、すなわち人間にしかできないことを「売り」の最たるものにしていて、それはAI+ロボットの脅威ともっとも遠いところにあるように見えるからだ。
僕は観光学科を受験したくらいだから、大昔から「ホテル」というものに興味があり、泊まるのが趣味だったらこんな優雅なことはないけれどももちろんそういうわけにもいかないので、だからひたすら耳学問してきた。確か80年代の世界のホテルランキングは、かなり長い間、バンコクのマンダリンオリエンタルが1位で東京のオークラが2位だったと記憶している。それは、いわゆるオリエンタルホスピタリティが評価されたもので、西欧人のコロニアル意識に基づいたもの、というふうにも説明されていた。
しかしながら、今現在の世界のホテルランキングをつらつらと見ると、シンガポールなら例のマリーナサンズのような新しくて設備の整った、いわゆるゴージャス系が大勢を占めている。つまり、オークラのような「人」で勝負(逆に言えば設備は古い)よりも、ゴージャスなハードを有しているほうが評価されている(もっとも今のホテルの評価ランキングは、いろんな商業的思惑やスポンサードがあったりしてあまり当てにならないようですが)。
それでは僕たちは今、本当にホテルにホスピタリティというものを求めているのか。ビジネス利用の場合は、そんなものは必要ないという人があるいは大半ではないか。「変なホテル」はあるいは理にかなっているのかもしれない。
というふうに話をつむいでいくと、ホテル業界ですらそうなのだから、もう人間力はAIに押さっぱなしに押されてしまうやんけ、と悲嘆してしまう。先日、GUでパンツを買ったら、レジが自動化されていて腰が抜けそうになった(気づくの遅い?)。いわゆるマヌカンは、横で微笑んでいるだけである。洋服屋も、ホテルと同じくホスピタリティと親和性が高い場所ではないか。もっとも今は、服も通販が大勢を占めているから、むしろそういう店頭でのふれあいをうざいと思う人が大半なのかもしれない。ショップ店員もまた消え行く職業なのか。
僕などは服屋で店員さんと話したりするのがわりと好きで、ユナイテッドアローズの設立メンバーのひとりである栗野宏文さんがビームスの店長だった頃、今ふうに言えば“認知”してもらっていたことを、中高時代に、とあるブランドのプレスさんの追っかけをしていた娘に対して自慢したりするのである。あっちはあっちで「へーそりゃすげーな」などと素直に感心してくれるから、馬鹿な親子ではある。
逆に病院へは、僕の場合、耳の痛いお小言をいただきに行くようなものだから、それこそAI化してデータ分析の結果を紙面かなにかで伝えてもらえればありがたいのに……、と、畏れ多くも思ったりもする。内科であれば、それも可能だろう(医師のようなエリート職の仕事さえ侵食する可能性があるのがAIの「脅威」だ)。ただ、ここでハタと気づくのは、高齢者がホスピタリティを感じる場所こそ病院ではないか。つまり、医療という、今一番消費マインドが働く場所こそ、医師会の政治力とかそういうことは別にしてAIが突き崩せない「聖域」なのだろう。
日本の若者はAIに代替されやすい?
それはともかく――。
子どもたちの65%は、大学卒業後、今は存在していない職業に就く(キャシー・デビッドソンニューヨーク市立大学教授)
今後10~20年程度で、約47%の仕事が自動化される可能性が高い(マイケル・A・オズボーンオックスフォード大学准教授)
という、よく目にする2点セットの、子どもたちの未来についての予言ならぬ予測がある。
僕がこれをはじめて接したのは5年ほど前だろうか。学校説明会で、だった。つまり学校業界は、かなり以前からAIというものを「脅威」としてとらえていたわけである。
ちなみに、AIは受験もする。東大合格を目指して立ち上げられたAIプロジェクトである“東ロボくん”は、進研模試で偏差値57、約12万人の受験者中2万8千430番だったという(2016年度)。つまりこれが今後、AIに伍して仕事をしていくためのひとつの基準になるだろう。
ところで、日本は主要国のなかでも、AIプラスロボットに雇用を侵食されやすい国といわれている。それは近い将来、5割にも達するのだそうだ。これは社会構造にもよるのだろうが、日本にいわゆるヒッキーメンタリティがあることも大きい。この文章を認めている僕からして、AI内科医出現しないかなあ……、などと考えているのだから。しかし本当にそうだろうか?
ここで唐突ですが、ゲームの話をさせていただく。
僕はゲームというものをほとんどやらない人間なのだが、麻雀ゲームだけは大好きだ。ただし、僕が持っているソフトは安いやつのせいか、搭載AIもたいしたことがないのだろう、引っ掛けリーチや単騎地獄待ちにまあ本当によく引っかかる。そういう待ちにしておけばだいたい勝てる。
えーとすみません、こういうふうに書いても麻雀を知らない方はなんのことだかわかりませんよね。ただ、これを説明しようとすると、まさに労多くして功少なしで、いたずらに紙幅ばかり取ってしまうので、ともかくトリッキーなことには弱い、というふうにご理解ください。
これが対人間だったらどうだろう。「こいつは単騎地獄待ちとかをやってくるんだよねえ。もう顔がそう言ってるもん」と言われて、見事にとめられたりする。このあたりが、人間とAIの違いなのかもしれない。プリミティブな例で大変申し訳ありませんが。
いや、もちろん、たとえば先のワトソンくんのような高度なコグニティブシステムは、それこそ高度な学習機能を売りにしているし、シンギュラリティをもたらすことも可能なのだろう。ただ今後、一般のワーカーと競争するであろうAIはそこまでコストをかけられるとは思わない。「忖度」機能はまだまだ当分、人間のほうが上だと思われる。
ジャパニーズホスピタリティの根っこにあるものは?
そしてここに、AIと今後競合していくであろう、普通の総合職、事務職の人間が生きる道があるのではないか。「忖度」は日本独自のものだという。そうすると、定説に反して、日本人はAIとの競争に強い?
だが一方で、日本人特有のメンタリティもある。それは、対人恐怖症なのだという。実は、民族ごとに特有の病気というものはあるらしく、それが日本人の場合、対人恐怖症でだという(驚くことに外国人は緊張したりしないのらしいのですね)。だからこそ、コミュ障になったりする。というふうに考察を進めていくと、じゃあ、ジャパニーズホスピタリティはどうなんだ、それこそ、究極の「おもてなし」と諸外国に評価されているじゃないか、という声も聞こえてくる。
そこで思うに――。
おそらく「忖度」も、「対人恐怖症」も「ジャパニーズホスピタリティ」もすべて根っこは同じなのですよ。そしてこのような資質(といっていいのかどうなのかはわからないけれども)がからみあってつくりあげる人間性、そこからこそ、おそらくAIが一番苦手とすることだ。
いよいよオリンピックとパラリンピックが日本にやってくる。実は今、オリンピックで、というよりも世界中の都市で当たり前になっていることに、東京オリンピック、すなわち日本が発祥のものがあるという。ピクトグラムだ。
ピクトグラムがどのようにして生まれたかといえば、東京オリンピックのために大量に来日する日本語を理解できない外国人と、外国語の苦手な日本人との間でコミュニケーションが容易く取れるようにするためだという。つまりあの当時の日本人は、そうした外国人の気持ちを忖度して、今では世界共通語になったピクトグラムをつくったのだ。そういう発想そのものはAIにはできないのではないか。そして、AI克服のヒントは、このようなジャパニーズメンタリティのなかにあるような気がしてならないのである。