保護者の「身の丈」でわが子の未来を制限しないために、今すぐわたしたちができること

Wokandapix / Pixabay

試験における「平等公正」の終焉!?

ご存じの通り、昨年11月に大学入学共通テストへの英語民間試験の導入が見送られ、また12月には、もうひとつの目玉であった記述式問題の出題も白紙となった。

こうした混乱のベースには、10月の萩生田文科相の「身の丈」という不用意な(?)発言があったのは間違いないだろう。これを野党やメディアから「そーらみたことか、やっぱり不公平じゃないか!」と、まさに乗じられたかたちになったのは素人目にも明らかだった。そして残念なことに一部保護者もこれに同調し、それを「とまどう保護者」として利用されたようにも見えた。

問題の「身の丈」発言であるが、裏を返せば「新しい入試は平等公平じゃない」ということだ。しかし、ですよ、それを批判するのは了見が違うってものでしょうと愚考する次第なのであります。なぜなら大学入試改革そのものが、極端な話、平等を廃するものだからだ。

確かにこれまで日本には「偏差値の前の平等」があった。そしてこれは、日本の大きな美徳だったと思う。でも、もうそれじゃあやっていけない、そのような試験で選抜された人材では世界の優秀な若者に伍していくことはできない、ましてやAIの時代にAIに代替されない人間になることなどできない、という観点から、大学入試改革というものは行われるはずだった。だからCEFR基準を設けたり、記述式問題を出題することで、「順位」ではなく「能力」をみようとした。そこには「平等」「公正」にはある程度目を瞑ろうという暗黙の了解もあったと思われる。鈴木寛(元)文科相補佐官も「フランスじゃ一つの記述式答案を一人の採点官が採点しとる!」と言ってましたしね。

にも関わらず、「身の丈」発言が引き起こした「平等原理主義」みたいなものでこれが崩れてしまったのは、なーんか違うよな、という感を強くするのである。なにしろ我々の子はこれから、偏差値の前の平等がないどころか、理不尽きわまる不平等に満ち満ちた世界を相手に生きていくのだから。

大学入試改革の頓挫に企業も失望?

ともあれ「平等」「公平」を訴えるという、いわば「小さな正義」を行使した結果、大きなものを失ってしまった感が半端ないのだ。

さて僕が個人的に今回の処置、とくに英語の処遇で一番心配になったのは、これから大学生になる若者たちの就職のことである。

そもそも大学入試改革は、企業からの要請が大きかった。だから文科省施策としてだけでなく経産省もからんでいる。

企業の要望に沿った人材を大学が育成してくれていないという不満があり、それを表明したところ、大学はそれは中等教育課程が(なってないから)と言い、そうしたら高校サイドはなに言ってんだ、今の大学入試制度に対応している以上こういう教育になるのは当たり前じゃないかと主張し、だったら大学入試を改革することで中高の段階から教育を変え、企業の、というよりも、来るべき社会の要望に沿った人材を育成していきましょうよ、と、非常に大雑把に言えば、そういうことだったはずだ。言うまでもなく中高の現場を変える一番大きなモチベーションは大学入試だからだ。

そういう経緯だったからこそ、今回の一件についての企業サイドの失望は大きく、「もう大学入試改革には期待せんもんねー」という動きが早くも出始めているという。わりを食うのは未来の就活生である。

もちろん、英語民間試験の配点ということでいえば、国公立の場合二割程度が目処とされ、全教科のなかでのプレゼンスは大きくはなかった。ただスピーキングを含む4技能について、大学合格を目指すすべての人が、小学生の頃から意識して取り組んでいくことの意義ははかり知れないし、企業もそんな「未来の日本人」に期待していたと思われる。

個人的にも、就活に際してまさに泥縄的にTOEIC対策を始めるわが子を見るにつけ、あーこういうことを高校時代からカリキュラムのなかに組み入れやっておいてくれていればなあ、とも思ってしまうのである。

繰りかえすが今、英語民間試験導入ひいては大学入試改革そのものについて「身の丈」「格差」といったことがクローズアップされてしまっている。確かにそうした側面はあるだろう。けれども教育についての「不平等」というか「不合理」はほかにもたくさんある、というのが保護者としての率直なところだ。

私たち保護者が問題にしたいのはそこじゃないのだ!

たとえば今回、英語の民間試験について「何回も練習できる都会の高校生が有利」とされたが、それがいかほどのものだろう。

それなら我々保護者は、たとえば大学の理系学部が実質六年制になっていて2年分余計に学費を払わなければならないこと、国立大の学費が2005年まで隔年で値上げされ、今では私立大(文系)の六割程度になってしまっているのにも関わらず、一部大学でまたぞろ値上げの動きがあること、外国からの留学生が非常に厚遇されている一方、日本の高校から進学する学生に対する奨学金制度がきわめて不利で、それが将来の大きな負担になり奨学金破産なども生じていることなど、問題にしたいことはやまほどある(ようやく「高等教育無償化」制度ができたが、むろん全学生、全家庭が恩恵をこうむるものではなく、とりあえずやってみました感はまぬがれない)。

また、先に大学入試改革は企業からの要請と記したが、多くの大学が英語やICT運用能力など社会で必要となる基本的なスキルの養成能力を持たず、必然的に保護者が自腹で(?)ダブルスクールさせなければならない現状にも、まったくもって不満であります!

思うに、もともと日本人には「わが子に何も財産は残せないけれども、教育だけは最高のものを」というメンタリティがあった。本誌読者の皆様も同じでしょうし、だからこそ、こうした本を読んでくださっているのだと思います。僕自身もそうで、振り返れば、やはり教育(費)にオールインしてきたと思う。それこそ「身の丈」に合わない私立中高一貫校や私立大学に通わせたりもした。わが子の未来に投資するんだから、すべてに優先するのが当たり前、というわけだ。

で、今の日本の教育費負担制度は、こうした保護者のいじましくも健気な心情(自分で言うことじゃないですが)にあまりにも甘えてきた、と、ひとりの保護者として感じてしまうのですよ。

ただ今の日本の保護者は、心情はそうであっても、もう現実的には支えきれなくなっている。だから奨学金に頼り、それが子どもの将来の大きな負担になる――こうしたことこそ、問題にしてほしいところであります。

何度も書いて恐縮だが、一見、平等を維持するために英語の民間試験が見送りになった。本来なら、大学ごとに呈示されているCEFR基準を目指して一律的に勉強対策していけばよかったのが、「世界を舞台に活躍する」「AIに負けない人材になる」という、私たち保護者からすれば漠然とした目標に向けて、自分たちでやっていかなければならなくなった。そこでは、英語の民間試験で問題になったこととは問題にはならないくらいの「格差」が生じてしまう。それこそ保護者の「身の丈」に応じて、わが子の未来が制限されてしまう。一人の保護者として、こんな悲しいことはないのである。

「指標」が見えない未来において、CEFRは数少ない指標の一つになるはずだったはずだが……。

それでも、家庭でできることはある!

もちろん、大きな流れということでいえば、変わることはないだろう。日本史でいえば、寺社の既得権益排除という織田信長の大改革が本能寺の変で断たれたかといえばそうではなく、それは秀吉、家康へとしっかり受け継がれたように。ただし信長が行った過激なかたちではなく、より穏健なかたちへしモデファイされた。今回の入試改革も、大きな流れは変わらないにしろ、モデファイはされるだろう。問題は、そのようなゆるやかな改革で、世界の変化やAI社会の進展浸透に間に合うの、ということである。

そして穏健化する分、私たちは自分たちでやらなければならない。国がやることを保護者が肩代わりしなければならない。なんのことはない、負担増なのである。

では、どうすればいいか。本誌ではこの点に関して、大学入試改革が迷走する前から、いろんな教育関係者に何年にもわたって訊いてきた。体験格差の時代にあって、どのようにすれば、これからの世界に対峙でき、さらにはAIに負けない人材になれるのか。そのために誰にでもできる、つまり「平等」な方法はなにか、ということを、である。

そしてその見解は見事に一致している。それをここで明かそう。本当はこんなことを300円で教えるのはもったいないのだが、他ならぬ本誌読者の皆様ためにお伝えしたい。これこそアルファにしてオメガである(恩着せすぎですね。すみません)。

家庭内の会話の量です。

最後に補足として、全国公立高校のなかでも名門中の名門とされる高校で聞いた話を少々。なにが同校をして名門たらしめているか、訊いてみたことがある。そうすると返ってきた言葉は意外なものだった。それは、伝統でもなく教育力でもなく「ここに生徒を送り込んでくださっているご家庭が素晴らしいのです」と。

やはり家庭力なのだ。

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