コナコーヒーがすべてのコーヒーのなかで際立って高価である理由を、 高校生に教えてもらった日のこと

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コナコーヒーは農産物価格決定メカニズムの埒外!?

なぜ「コナ」というコーヒー豆が、すべてのコーヒー豆のなかで際立って高価なのか、皆さんは考えてみたことがあるでしょうか。

コナは、コーヒー豆売り場に行くとストレート豆の場合、一般的な銘柄、たとえばブレンドの主体となるコロンビアやマンデリンが200グラム600円程度のところ、200グラムで4500円ほどする。最高級といわれるブルーマウンテンナンバーワンよりもさらに高いのである。

そして、このブルーマウンテンナンバーワンと比べることで、コナの高価さの、ある種の奇妙さのようなものが際立つ。「ワインでいえば、シャトーやドメーヌの名を冠したワインよりもボルドーという地方名ワインのほうが高い」「お茶でいえば、農家の名を冠したお茶よりも静岡茶という広域名がついたお茶のほうが高い」ようなもの、と言えるかもしれない。農産物全般についての原産地統制という常識を外れて、その高価さが、とても奇妙なのだ。

コナはその名の通り、ハワイ島のカイルアコナ一帯で産する。昔、明石家さんまさんが「俺はコーヒーはコナコーヒーしか飲まへんねん。コナコーヒーゆーても粉コーヒーちゃうでえ~」というギャグをやっていた気がするが、あれは確か『男女7人夏物語』の頃だから、もう35年も前になるのか。

僕もその頃、カイルアコナの街でコナコーヒーを飲んだことがある。同行者が「せっかくコナにいるんだからコナコーヒー飲もう」と言い出して、「えーせっかくハワイなんだから、そこはビールやろ~」と抵抗したのだが、しぶしぶお付き合いしたら、めちゃくちゃ美味しくてびっくりしたのだった。

ただし、それ以来、コナコーヒーは、たまにお土産でもらう以外は飲んでいない。お土産でもらうのは、あくまでもお土産品であるからコナブレンドってやつだ。ホンモノ(?)のコナは本当に飲んでない。したがってコナが高かろうが安かろうが、俺にはあんまり関係ねえてな気分でぼーっと生きてきたのだった。

エシカル消費の視点でコーヒー豆生産をとらえてみると……

が、先日、全国高校生マイプロジェクトアワードを見学し、なぜコナコーヒーが「奇妙」なほどに高価格なのか、その謎(?)がなんとなくだが解明できたのでご報告させていただく。

マイプロジェクトとは、高校生が自らテーマ設定した「探究」学習の成果を競うものである。主催は全国高校生マイプロジェクト実行委員会で、文部科学省や日本ユネスコ、各教育委員会も後援している。その関東大会が行われ、それを見に行ったのだった。

関東大会には全107チームが参加。うち8つのプロジェクトが選ばれ、全国大会に出場する(全国大会は結局、コロナの影響でオンラインで行われた)。そしてそのなかのひとつに、「エシカル消費とSDGs! ~ビジネスが世界を救う~」があった。

今年の2月に行われた関東大会。100以上のチーム個人が同時進行で発表したため、全部見るのが不可能だったのが残念でした。

研究発表したのは横浜にある中高一貫校の女子高生だったのだが、そこではフェアトレードが訴求された。フェアトレードとはご存じの通り「適正な報酬での取引」であり、つまり不当な低賃金労働による製品を排するものだ。そして、フェアトレード商品を選んで消費することもまたエシカル消費であり、一番簡単にできるSDGsへの貢献である、としていた。

エシカル消費は通常、環境負荷を考えての消費とされるケースが多いし、事実、これを書いている2月20日にも「東レがエシカル消費需要に応えて100%植物由来の合成繊維を開発」といった記事を見た。一方で彼女は、フェアトレードのためのエシカル消費を訴えた。SDGsでいえば、「貧困をなくそう」「人や国の不平等をなくそう」をターゲットにしているわけだ。

そしてこの視点を用いれば、多くのコーヒー豆が現在、フェアトレードから外れているのではないかという疑念も湧いてくる。たとえば僕は普段、500グラムで398円(税別)という近所のスーパーのオリジナルのブレンドコーヒー(原材料はブラジル、コロンビア、他となっている)を愛飲しているが、コナに比べると、なんというかもう破壊的な安さだ。

もちろんすべてのコーヒー豆がフェアトレードから外れているとは思えないが、ただし一部、過酷な未成年者労働に支えられるのは事実だろう。そしてそうした判断に、コナコーヒーの高価さというものさしが使えるのではないかと思う。

行動する高校生が見えない未来を可視化する!?

コナはハワイという先進国で生産されている。つまり、先進国で生産されている唯一といっていいコーヒー豆ということになる。

ここまで高価高価と記してきたが、もしかしたらこれが普通なのかもしれない。これが、ストレートコーヒーの適正価格にならなくてはいけない。というふうに、マイプロジェクトの発表を聞きながら思ったのだった。

そんな日常の疑問、しかし世界の根幹に関わる問題を、高校生が大人に教授してくれる世の中になっている。今、中高生の資質は確実に変化しているのは驚くべきことだ。

しかし、である。そうした高校生はやはり一部だろう。逆に言えば今、若者は確実に分化し始めている。そのベースには、将来的にAIを使う人間になるか使われる人間になるかという問題もあるが、もっと根源的なものがあるのではないか。つまり今の高校生は、信用できるものがなにもない世界を生きていく、ということである。

実はこれは、我々大人世代も同じである。例の「年金のほかに二千万円必要」問題が唐突に持ち上がり(もちろん政府からすれば確信犯でしょうけど)、その数ヵ月後に「70歳就業法案」が閣議決定されるとか、もう完全に、国が「国はあてにすんなよ、死ぬまで働け」宣言をしたということでしょう。そこで、空前の投資ブーム、個人副業ブームが勃発し、それ関連で儲ける人は儲ける、という構図になっているようである(「ようである」としか書けない僕は完全に出遅れているわけですが)。

こうしたことから大人も、社会が変わる、社会構造が変わるということを、いわば皮膚感覚で理解するようになった。だからこそ、若者たちのことも見えてくる。今の若者たちのなかには、社会変革を肌で感じて、つまりそれを本能に近い部分で察知して、行動を起こそうとしている人とそうではない人がいる、ということだ。

マイプロジェクトに参加している高校生は、「行動を起こそうとしている」。そしてその使命感が、見えない未来をサバイバルしていく、世界のなかで居場所を見つけるということと繋がっている。本人はたぶん気づいてないでしょうけど。

マイプロジェクトに参加するような高校生は、先生に言われたとか、課題だとか、さらにはもちろん大学入試のためではなく、今の社会情勢、世界情勢が刺激する内なる自分に命じられて行っているのだ。

これが、大学生になると、行動はもっと現実的かつ直裁になる。

先日、ひょんなことから知り合いになった学習院大学の学生は、自分でお役立ち系のブログを作成し、副業にする、というよりも、影響力を持った自分メディアを持つことで、見えない未来、信用できるものがない未来に備えていた。そして「僕は文系ですから(これくらいやっておかないと)」と言うのだった。見えているのである。

その一方で、「探究? たりーな。でもポートフォリオに載せられるから、やっとくか」な人は、大学に入れば、我々世代と同じような大学生活を送るのだろう。昔の僕の例でいえば、ドラッカーの少量多品種生産理論で「T型フォードに対抗して、ドラッカー率いるシボレーはさまざまなカラーバリエーションの車を送り出した」と聞いたとき、「そんなの俺でも思いつくぜ」と言い放ってそこから何も学ばないような大学生活を、である。

そしてそんな人は、まさしく今の僕のように、「二千万円必要」だとか「70歳まで働け」という外的要因に翻弄され、さらにおっさんになってはじめて「ああ、だからコナコーヒーって高いのか」と知るような人生を送るのだろう。しかし僕ら世代の場合は、それでもなんとかサバイバルできてきた。ただ、これからはそうはいかないのは自明だ。

繰り返すが、これからの若者は、その資質において、学歴とかとはまた別のところで分化していく。その原点はやはり中高でなにを感じ、なにを見、なにを行動したのかにあるのだろうと思う。もちろん、そうしたトリガーになってくれる環境を選ぶことの重要性は言を待たない。学び環境を選ぶことの意味は、もはや未来をサバイバルできるか否か、にまで関わっていると言っていい。

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