形而上と形而下のはざまで

GDJ / Pixabay

「努力すれば夢は叶う」は本当か?

かなり前の話ではあるが、所用で名古屋に行ったおり、電車の中で金城学院大学の広告を見た。キャッチコピーは「私も誰かのキング牧師になれるかな?」である。

大学の広告は、たとえば「未来をつくる人になる」といった形而上の夢を謳うものが多い。というよりも、それが大半であると言ってもいい。しかるに金城学院大学は「キング牧師」という具体的な名前を、すなわち形而下の記号を広告に用いていた。

これは、同学がミッションスクールであるからだろう。大学の理念の具現化として「キング牧師」という名称を使い、それが「一人ひとりの夢」も同時に表わしているという一石二鳥的構造を有しており、なかなかに心憎い広告のように感じた。

金城学院大学のウェブサイトより。

むろん「誰かのキング牧師」という「夢」は、一般的な高校生にとってハードルが高い。皮肉なことに形而下の名前を出すことによって、「未来をつくる人になる」以上に形而上的な夢の提示となってしまっている。しかし、それだけに胸に響くことも事実だ。

ではそもそもなぜ、大学はその手の「夢」を提示しているのか?

それが役割だから、ということは言えるだろう。長らく日本においては、大学は夢を提示する場所だった。

ところが最近では、この「夢の提示」に疑問を呈する人もいる。たとえば漫画家の弘兼憲史氏は、「“努力すれば夢は必ず叶う”がウソだということを子供たちに教えるべき」と発言し物議を醸したりもした。

私たち保護者にいたっては、それこそ大昔から「夢みたいなことを言ってないで、現実的に自分の人生をみつめなさい」と弘兼氏同様のことを主張(?)してきた。にも関わらず、大学、あるいは社会全体に、「がんばれば必ず夢はかなう」という風潮が蔓延している、あるいはしていたのだ。

誰もが気軽に「夢」を口にできる、人類史上、初めての国

それでは、と思う。他の国はどうだろう?

まず、ヨーロッパのことを考えてみる。日本の高校にあたる教育課程においては、専門科の割合がとても高いと聞く。つまり高校進学の時点で、現実的に生きることを、ある程度、社会から強制される。

さらに、職種ということについても考えてみる。

日本では、女子大学生に人気の職種として「企業のプレス(広報担当)」がある。しかしヨーロッパでは、それは上流階級の子女限定の仕事だと決まっているという。お父様やおじい様のコネ、というか人脈を大いに活用して行う仕事だからだ。

このことは、かの地の普通の学生にとって理不尽なことであろうか。取材したわけではないので正確なところはわからないけれど、おそらく、それを当たり前のように受け止めているんだろうなあ、とは想像できる。あちらは、いわゆる階級社会の伝統があるからだ。階級社会というものは、大多数の人間が「夢を見ない」ことを当然としている社会と言っていいかもしれない(そこに風穴を空けたのがITということもできるが)。

アメリカはどうかといえば、実現の可能性がきわめて小さな、いわゆるアメリカンドリームを国家運営の求心力のひとつとする、という考え方がある。だからこれも、日本のように万人が夢を見ることのできる社会とは似て非なるものだろう。

では、東洋ではどうだったか。

確かに中国の科挙という制度は、誰もが栄達という「夢」を描ける制度だったと言えるかもしれない。

むろん、中国にも門閥(=階級)というものがあったことは、『三国志』などを読んでもわかる。ただ中国皇帝にとっては、貴族というものは、いつ自分に取って代わるかもしれない危険な存在なので、それゆえに門閥とは関係ない、日本でいえば吉備真備や菅原道真みたいな純粋な官僚スタッフを科挙によって吸い上げ、その才能のみを存分に使おうという腹はあったのだろう。

ただし、この皇帝一極集中型国家が長く続いたため、すなわち中央集権が早い時期で確立されたため、人類最古の文明発祥地の一つであり、かつ文明が発展する条件に恵まれていたのにも関わらず、中国はヨーロッパに比べ、いわゆる近代的な技術の確立が遅れたのだという(話題の本『銃・病原菌・鉄』を遅ればせながらようやく読了し、受け売りをしております)。

それはともかく、じゃ今の日本は科挙時代の中国と似ているかといえば、やっぱりこれも全然違っている。だって科挙をパスしても、「キング牧師」のような自分の理念を遂行する人になれるわけではないし、そもそも科挙自体が、あまりにも狭き門ですからね。

で、要は言いたいことはですね、今の日本は、誰もが気軽に「夢」を口にできる、人類史上、初めての国だということだ。

ここでいう「夢」とは、何度も引用するようだが、「キング牧師になる」に代表されるものだ。そして、もし「キング牧師」を目指そうと思えば、自分の人間性を高めていくしかない。そうした人が大学では何を学ぶかといえば、やっぱりリベラルアーツと呼ばれる学問になるのではないかと思う。

リベラルアーツを学ぶのなら

リベラルアーツとは、ウィキペディアには「人文科学、社会科学、自然科学を包括する基礎分野」とあるが、一般的な感覚としては、「実学」の反対語であるところの「教養」になる。

学部でいえば、文学部はリベラルアーツの典型であろうし、経済学部は一応「実学」のようにも思えるけれども、日本の場合、「マル経」なぞという、まさに形而上の学問が長らく実践されてきたわけで、もしかしたらこれもリベラルアーツと言えるかもしれない。

理系でいえば、理学部もそうだ。

たとえば東大に理Ⅲ合格して、進振りで医学部医学科ではなく、理学部数学科や物理科を選んだりするのは、我々凡人から見れば最高に格好いい行為だが、医学部という将来を約束された学部ではなく、理学部数学科といったような「末は博士かホームレス」を選ぶのは、やっぱり生き方としては「ワイルド」だろう。

つまり、今の日本においては、選択することが「ワイルド」になってしまう学問が、リベラルアーツと言っていいかもしれない。

しかしこれは、こと現代の日本に限った話ではなく、リベラルアーツという概念が生まれた時点から、「実学」とは相反する性格をその中に内包していた。

そもそも、スクールという言葉は、スコーレ(=暇)から由来しているというのは有名であるが、その暇を使ってする学問がリベラルアーツということになる。だから人類の歴史から見れば、リベラルアーツは、あくまでも、ごくごく一部の天才か秀才が取り組む学問であり、またその系譜は今も続いていると言ってもいい。

しかるに、です。日本の大学は、リベラルアーツの比率が非常に高い。そもそもそれ以前に、高校も普通科の比率が異常に高く大学進学率が六割にもなる。つまり、「キング牧師になる」に代表されるような崇高な夢を抱きつつ、「未来をつくる人になる」と謳う大学で、「実学」ではないリベラルアーツを学ぶ大学生が異常に多い。それが日本であり、世界史の中の奇跡だったのかもしれない。

ところが、この日本においても、ご存知のように、形而上の夢を語る時代の終焉を迎えようとしている。それが昨今の文理就職格差や、また高校生(とくに女子)の極端なまでの医歯薬医療分野(学部学科)指向となって現われている。大学新テスト(大学入試改革)も、大学をリベラルアーツ系とディプロマ(≒実学)系に分化させる役割があるように見える。

私たち保護者は、わが子に対して、堅実に、たとえば薬学部などの「実学」を目指してほしいと思う反面、「キング牧師のような人になりたい」というわが子に、自由に学問させてあげたいとも思う。形而下と形而上のはざまで、気持ちは揺れ動く。ただ、もしわが子が「キング牧師」を指向するなら、こちらがきちんと納得できるだけの形而下の努力のあと(具体的には成績)を見せてもらいたいものだと、かように考える次第であります。

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