何が人をボランティアに駆り立てるのか
僕の先輩世代には、早期退職のための肩たたきに遭ったという人も多い。ただし長年大企業に勤めていたような人は、退職金もかなり割増支給されたのだろう、なかなか優雅に暮らしている。そしてそうした人が今なにをやっているかといえば、たとえばボランティアだ。そのなかのひとりは、東日本大震災の被災地に定期的に行ってなにがしかのお手伝いをしている。高貴な生き方とも言え、毎日あくせくしている僕などと比べると、その境遇と心根の差に驚いてしまうのだが、なにが彼をそうしたことに駆り立てているかといえば、やはり菩提心というものに行き着くと思う。
菩提心とは、いろいろ解釈はあるだろうが、乱暴に言い切ってしまえば、他者のために何かをしたいという気持ちになる。それは人間誰しも持っている本能に近いものとされている。というと、菩提心はとてもよいもののように思えるけれど、しかしこれがあるがゆえに宗教戦争などが起きてきたこともまた人類の歴史のひとつの側面だろう。
その菩提心なのだが、団塊の世代などはそれをたとえば学生運動に向けていた。僕らの大学時代も、そうした学生運動は一部の大学のキャンパスに埋み火のようにくすぶっていて、早稲田に行った高校の同級生のFくんなどは、三里塚闘争にも参加していたのである。
「三里塚にアディダスのローマを履いていったのは俺ぐらいのもんだろ」というのが彼の、現在に至るまでの自慢なのだが、この言葉はなかなか示唆深い。彼は、遅れてきた学生運動家でありながら、ポパイ世代(死語)でもあったわけだ。
すみません。そう言ってもなんのことだかわかりませんよね。つまり、こういうことなのです。
Fくんは、菩提心をコアとしたエネルギーをぶつける対象として学生運動を選んだ。しかしときは、あのバブリーな80年代の入り口。若者のココロは学生運動を遠く離れ「消費」に向かいつつあった。スニーカーや車といったアイテムが、今とはまったく比較にならないプレゼンスをもって、我々当時の若者のココロを揺さぶっていたのである。つまり先の発言は、若者が菩提心ベースのエネルギーを学生運動にぶつける時代から、そのエネルギーを快楽で消費する時代への転換を端的に表現している……、とまあ、大げさに言えばそういうことになりましょう。
むろんこうした転換は、全共闘世代の人たちからすれば「若者が骨抜きにされた」なのだろうけど、僕らはそんなことはまったく関係なく、アディダスだあ~ナイキだあ~とやっていた。件のFくんにしたところで、高校時代は「アディダスのATPナスターゼとトムオッカーウィンブルドンのどっちがかっこいいか」なんてことを、僕とそれこそ夜を徹して議論していたのである(馬鹿です)。
昔の大学生の「意識高い」はどこに向かったのか
それから時が流れて数十年。Fくんは現在では溝の口でクラフトビールバーを経営しているのだが、一度、カウンターの中の彼に訊いてみたことがある。
「お前、なんでウンドーやってたの?」
彼は、「なんでだろうなあ。でも、あのときはなんかやらずにはいられなかったんだよ」と遠い目をするのだった。そして「なにかやらずにいられない」という思いのベースには、繰り返すが、菩提心というものがあったのだろう。
「菩提心」「菩提心」と書き連ねてきたが、これを現代語訳(?)すると「意識高い」になるのではないか。
「意識の高さゆえに学生運動にハマる」
なかなかしっくりきて収まりがいい。だからそれほど間違った現代語訳ではないだろう。ただ「意識高い」が「意識高い系」になると揶揄するニュアンスが含まれるので注意が必要だ(何の?)
ともあれ学生運動が終息し、バブル系消費という価値観に若者がとらえられたのも束の間、バブル崩壊がやってきて、そのような価値観も消散してからこっち、つまり90年代から今に至るまで、若者たちの意識の高さは行き場を失ってしまったようにも思う。
迷走する「意識高い」人たちがなにをしたかといえば、たとえばピースボートに乗ったり、である。このピースボートでの生活については、古市憲寿・本田由紀著『希望難民ご一行様』で揶揄られていたりしてたいそう興味深いのだが、「意識高い」とピースボートのコンセプトや体制がミスマッチだったのかもしれない。
その点、冒頭に挙げた被災地ボランティアは、「意識高い」の対象としてとても適切に見える。しかしこれは全部自前でやるのだから、時間的経済的な余裕がある人しかできない。あるいは、ボランティアのなかでも海外ボランティアの場合、年齢や能力の条件がものすごく厳しいらしく、実行するのを諦めてしまった僕より年下の友人も何人かいる。彼ら彼女らに言わせると、応募するととんでもなくスペックの高い人が集まっており、TOEICのスコアレベルで撥ねられたりするのだそうだ。
そんなわけでボランティアは、なかなか難しい。それでも、ペット保護のボランティアなどをしている人もいるけれども、普通の人間にとってはせいぜいヴィーガン料理のお店で食事してなんとなく意識高い自分を確認する……程度がせいいっぱいであったと思われる。これまでのところは。
「意識高い」が実力に結びつく時代に
ところが、これからの若者はそうではなくなるであろうから、朗報、と言っていいかもしれない。下に「思考コード」表と呼ばれるものを示す。
これは、首都圏模試センターと私立学校研究家の本間勇人氏が共同開発したもので、主に中学入試のレベルや方向性を示すためにも用いられる。「意識高い」保護者のなかには、見たことがある方も多いだろう。
横軸のA~Cは「考える力(思考レベル)」を表し、そのレベルが知識・理解思考→論理的思考→創造的思考というふうに上がっていく。一方、縦軸の1~3は「読み取り力(知識レベル)」を表し、そのレベルは単純→複雑→変容と上がっていく。
たとえばスタンダードな中学入試は「A~B、1~2」の範囲、難関校の中学入試は「A~B、2~3」、公立中高一貫校などの適性検査は「B~C、1~2」の範囲で出題される。通常の中学入試は「基礎的な知識」を問い、難関中は「高度な知識」を問い、公立中高一貫校は「基礎的な思考力」を問うわけだ。そして今後、中学入試の主流となると言われている思考力入試は「B~C、2~3」、つまり「高度な知識ベースの創造的思考力」を要求するということである(麻布や開成などは以前からそれを問うてきたとも言えますね)。
入試という観点から見ればそうだが、これは、学校とそこにいる生徒が目指す姿でもある。到達目標はもちろん「C3」で、そこに至るプロセスとして他の8つがあるということだ。
思考コードは表に示した「ザビエル」が有名だが、そのバージョンは学校の数だけある。とある中高一貫校女子校では、横軸の思考レベルを「ひとり→グループ→地球」とし、縦軸の知識レベルを「先生に教えてもらう→調査する→論文を作成する」としていた。そこでの「C3」(=到達点)は、「地球レベルの発想で具体的な解決策を示す」ことになる。
これからの若者は、そのように「C3」をいつも自分でシミュレーションするよう教育されていく。まさに「意識高い」ことが求められ、「意識高い」の着地点、落としどころを持つのである。
さて、「思考コード」的視点で見ると、以前、お笑いタレントのキングコングの西野亮廣氏のやった「リベンジ成人式」はまさに「C3」的事例ではないかと思う。
つまり、「はれのひ被害者をなんとかしたい」という菩提心(=「意識高い」)にもとづき、それを具現化するために「被害者の状況を把握し」(=A1)、「なにが問題なのかを考察し」(=B2)、「代替となるイベントを企画した」(=C3)と規定することができる。むろん西野氏は芸能人で財力もあっただろうから、さらにその企画を実行できたわけだが、企画立案までなら中高生でもできる。
ともあれ、有名人の発言や行動が思考コードのどのあたりに位置するのか、「あ~この人はA2レベルだな」とか、意地悪目線で観察するのもなかなかおもしろい。とくに国会中継とか。