オネスティか、マリーシアか

HaseebPhotography / Pixabay

今、どの程度、「コンプライアンス地獄」なのか?

今、この原稿を、成田へと向かう飛行機の中で書いている。というふうに言うと、いかにもかっこいいのだけれども、もちろんご察しの通り、国内線のLCCであります。そして周囲を見渡すと、東京に受験に行くらしき受験生も散見できる。僕らの世代が、大手キャリア(それしかなかった)のスカイメイトを使って受験に向かっていたことを考えると、今の受験生は、それよりもはるかに低コストで受験へと臨んでいるわけで、これもやはり、時代というものを反映しているのだろう。

ともあれ、こうやってLCCに乗っていて思うのは、なんと厳しいコンプライアンスよ、ということだ。乗客の一挙手一投足が、完全に管理されている。ほらほらほら、僕が座っている窓側席の、座席一つ空けた通路側の席に座ったオヤジがさっそく注意されていますよ。そのオヤジは、やってくるやいなや、空いている隣の席に手荷物のでかいリュックを乱暴に投げ置いたのだった。すると、その行為を目ざとく見つけた客室乗務員が獲物に迫るハンターのように突進してきて、「お手荷物は座席の下に」とのたまわり指示に従わせたものだから、そのリュックのストラップに自分の座席をほんの少しだが侵食されていた僕としては、大いに溜飲を下げたのでした(ワタクシも相当に陰険な性格です)。

とまあ、かようにLCCは、コンプライアンス=法令順守というと大げさだが、規律遵守の世界なのである(今さら力を込めて言うほどのことでもないですが)。そして重要なのは、そうした規律遵守のもと、全員が協力して一つのこと(この場合は、目的地に向かってトラブルなく無事に飛びつづけることになるのでしょうね)を成し遂げるのは、日本人的メンタリティには合っている、というのは、多くの方にとって異存のないところだろう。

むろん欧米は、日本以上のコンプライアンス天国(あるいは地獄?)という知識はある。ただし、そのベースには、「私もあなたに迷惑かけないから、あなたも私に迷惑かけないでね」という、さきほど僕が感じたある種の「陰険な気分」が存在しているのだろう。その点、日本人の規律遵守のベースにはそれとは違うものがあるように思えて仕方がない。

ディズニーコンプライアンスは日本だけに厳しい?

さて、そうしたコンプライアンスなるものが今のように社会の隅々にまで浸透するもうずっとずっと前、個人的には、日本人の法令順守に関して印象に残っていることがある。 1983年に東京ディズニーランドがオープンしたときだ。そこで呈示された“法令”は、「お弁当などの持込禁止」で、これは当時の日本人にとっては、かなり違和感があった。

だってそりゃそうでしょ。遊園地なんてものは、家族だんらんの場であり、デートの場です。だからこそ、お弁当をつくって持っていくのが当然、というか、お弁当をつくる時点から「遊園地行き」がはじまっていると言ってもいい。そこへ、「お弁当などの持込禁止」がアメリカから黒船のように到来したのである。そして結果的に、というか否応もなく僕たちは、「お弁当などの持ち込み禁止も含めてディズニー」を受け入れた(ご存知のように、今は持ち込みお弁当を食べていいエリアは設定されている)。

ただ、九〇年代になって、ディズニーランド・パリ開園の報に接したとき、「マジ、ヨーロッパでも『お弁当などの持ち込み禁止』になるの?」とは思った。ヨーロッパでは、日本と同じように「お弁当文化」があるのは知識として知っていたし、同時にヨーロッパの人たち、とくにフランス人が唯々諾々とディズニー法令に従うとは考えられなかったからだ。

ディズニーランド・パリの実態は、僕はよく知らない。ただ、さらにその後にオープンした香港ディズニーランドは、もちろん「お弁当などの持ち込み禁止」なのではあるが、それが有名無実化しているというのはよく聞く話である。

アメリカのディズニーの“コンプライアンス”は、日本と仏・中の間くらいだそう。

正価販売が日本を効率的な国にしたという説

そして、そのようなことを聞くと、結局のところ日本人だけがわりを食ったような感じもするし、腹立たしくもある。しかしながら、そういう日本人的メンタリティが、日本という国を先進国に押し上げたという説もある。「正価販売=経済成長」説だ。

今では世界中で行われている「正価販売」であるが、実はこれは日本が元祖だという。越後屋呉服店、すなわち現在の三越がはじめたことらしい。正価販売は、店側にとっても客側にとっても効率的なものだ。双方ともに、値段交渉ということから解放されて、他の業務(?)にそのエネルギーを振り向けることができるからだ。

ではなぜ、正価販売が成立するのかといえば、お互いの信用=誠実さに基づいたものだからだろう。逆にいえば、信用しないからこそ「値切り」が発生する。

そして、こうした日本独自の誠実ベースのメンタリティと社会システムが、社会を著しく効率化した。だから、江戸時代から、日本はすでに先進国だった、というふうにも言われる。

僕は、昨今流行の「日本人、日本社会は優れている」論にくみするものではないが、ただ、やっぱり誠実ベースの社会というのは、本当に効率がいいものなのだろうなあ、とは思う。トラブルも少ないし、それを取り締まったり解決したりする警察力や司法力も最小限で済む。なにしろ江戸時代の大岡越前守は、江戸の町のトラブルをたった一人で裁いていたわけですからね。効率がいいのにもほどがあります(南北の奉行所は、担当地区割りではなく、いわば輪番制度だったらしい)。

グローバル社会で日本的オネスティは通用するのか?

さて、以前にも書いたことがあるが、多くの日本人は「誠実たりなさい」というふうな教育を受ける。むろん僕もその一人であったし、今でも誠実万能主義を、わりに信奉している。甘いのかもしれないが、多くの日本人と同じように、誠実でいようと心がけたからこそ危機回避できたり(要は上司の雷を回避できたり)した、成功体験(?)を有している。つまり誠実であることは、日本では、もう本当にまったくもって立派な実用であるのだ。

思えば僕が高校生の頃、ビリー・ジョエルの「オネスティ」という曲が大ヒットした。例によって予算がないので歌詞を引用するわけにはいかないが、「オネスティ、なんと寂しい言葉なんだろう」とせつせつと歌唱するビリー・ジョエルに、そのオネスティがメジャー価値観である日本社会に育った僕としては、やはり違和感を覚えたのだ。

そういえば、名前にしたところでそうだ。今では多少違っているのだろうが、僕ら世代の同級生には「誠」という名前の人間がわりに多かった。さらにその一世代上の方、たとえば僕の知り合いのお父上には「至誠」という名前の方もいらっしゃる。「至誠、天に通ず」の「至誠」であり、まさに日本人的メンタリティを具現化した名前である(この「至誠、天に通ず」は中国の言葉であるが、今の中国社会がこれとはまったく真逆になっているのは皮肉としか言いようがないですね)。

ともあれ、「誠実」という価値観は、日本においては非常に大きい。ところが、である。今は、グローバル化とやらで、そうした日本人の誠実さがなかなか通用しなくなっているようであるし、一度、世界に出れば、誠実さよりも、ジコチューが優先するようにも見える。

冒頭に記したコンプライアンスということでいえば、欧米諸国は基本的にジコチューであるがゆえに(今の日本よりももっと厳しい)コンプライアンスを必要としたというふうにも思えるし、誤解を恐れずに言えば、いわゆる発展途上国といわれる国では、政治システムも含めて、コンプライアンスというオブラートさえまとわないジコチューがむき出しになっているがゆえに、社会が効率的に発展できなかったと思う。

さて、そこで考え込んでしまうのは、わが子をそうしたグローバル社会に出していくにあたって(これはなにも、海外で活動するということでなく、国内でも)、ジコチューというと言葉は悪いが、サッカーなどでよくいわれるところのマリーシア(=ずる賢さ)の考え方も必要だと教えるのか、これまで通り誠実至上主義で教育していくのか、ということについてだ。ちなみにマリーシアは、ジコチューを通用させるための、ある種の技術であると言える。

僕の大学時代のゼミの同級生に、プラント輸出の会社に勤務している人間がいるが、以前、酒を飲んだとき、「日本企業の誠実な仕事ぶりは、欧米や中国のライバルに対して、やっぱりアドバンテージになる」と言っていたことを思い出す。

とすれば、これから社会に、世界に出て行く日本の若者たちが、その誠実さを大いに輸出すればいい。それが、世界全体の活動の効率化をもたらし、平和にもつながる――と、夢見がちな教条主義者ならそう言うだろう。

しかし、そんなに上手くいくわけないだろ、とも当然ながら思う。だってグローバル社会において、一対一の局面では、オネスティよりもマリーシアのほうが断然強そうですからね。

わが子に対して、「どんな人だって、どんな国の人だって誠意をもって処すれば、きっと気持ちが通じ合うからね」と教えるのか、「グローバル社会ちゅーところはそりゃ生き馬の目を抜くような世界だから、自分の主張はきっちり通して、ときにはずるがしこさを発揮しないといかんよ」と説くのか――。このあたりは、非常に難しいところであり、私たち保護者につきつけられた今日的な課題だろう。

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