「ハーメルンの笛吹き男」は史実だった!
グリム童話の「ハーメルンの笛吹き男」というお話を初めて読んだのは、小学生低学年の頃だったと思うが、何だか本能的な恐怖を感じてしまったことを覚えている。
約束を破ると痛い目に遭う。このお話に込められた寓意は、当時から何かとルーズだった僕の心をチクリと刺したのだけれども、それとは別に、笛吹き男に連れて行かれる子供たちを、親たちが引き止めることができなかったことが、子供心にとても怖かったのだ。
ちなみに「ハーメルンの笛吹き男」のお話を知らない人はいないと思いますが、一応、念のためにそのあらすじを記しておきます。
ドイツのハーメルンの町は、大量に発生したネズミに困っていました。ネコもまったく役に立たず、あべこべにネズミに追いまわされる始末です。町の大切な穀物小屋もネズミに荒らされてしまい、町の人たちは途方に暮れていました。そんなとき、三角帽子を被り、色とりどりの服を着た男がやって来て言いました。「私がネズミどもを追い払ってあげましょう。その代わりにお金をください」
町の人たちは大喜びで、市長は報酬を払うことを約束しました。
男は笛を取り出すと、不思議なメロディを吹きました。すると、家という家から、穀倉という穀倉から、次から次へとネズミが出てきて、男の周りに集まりました。ネズミが一匹残らず出てきたことを確認すると、男は、笛を吹きながら歩き始めました。ネズミたちも男の後を追います。男は、やがて町の城門を出て、川の方に向かって行きました。男がざぶざぶと川に入っていくと、ネズミの大群も男の後を追って川に入り、そしてすべてのネズミは溺れ死んでしまいました。
数日後、男は再びハーメルンの町に現われ、約束の報酬を要求しました。しかし、市長はじめ町の大人たちは、急にお金を払うのが惜しくなりました。だから、「ネズミは勝手に出て行ったんだ。お前が追い払ったんじゃない」などと勝手な理屈を言って、支払いを拒否しました。
男は、黙って笛を取り出すと、この前とはまた違う恐ろしげなメロディを吹き始めました。すると今度は、家という家から子供たちが出てきて、男の周りに集まりました。男は、ネズミのときと同じように、笛を吹きながら歩きます。子供たちも男の後を追います。町の大人たちは、慌てて引きとめようとしますが、子供たちは、何かにとりつかれたように踊りながら男に従いていこうとし、大人たちの声にまったく耳を傾けません。
男に従いていく子供の中には市長の娘もいたので、市長は叫びました。「金はいくらでも払う! だから娘を置いていってくれ」
しかし、男は聞く耳を持ちません。市長の叫びは、踊りながら、歌いながら、練り歩いていく子供たちのざわめきにかき消されてしまったようでした。
やがて男は、子供たちを、ネズミのときと同じように城門の外に連れ出し、どこへともなく消えてしまいました。そして、子供たちは二度と、ハーメルンの町へ戻って来ることはありませんでした。
僕がこのお話に再び接したのは大人になってからで、阿部謹也氏(歴史学者・ 2006年没)が著した『ハーメルンの笛吹き男~伝説とその世界』を読んで大いに驚いた。なぜ驚いたかといえば、このお話が本当にあった、つまり史実だということを知ったからだ。
1284年、六月二六日、ドイツ――当時は神聖ローマ帝国――のハーメルン市から、一三〇人の子供たちが忽然と消えた。
ハーメルン市の教会の窓には、今でもこの史実を伝承するガラス絵がはめられていて、またこの史実を記した碑文も残っているという。さらに、ハーメルンの街には舞踏禁制通りというものがあり、ここで放歌高吟することは、ご法度なのだそうだ。子供を失ってしまったことを決して忘れず、「二度と悲劇は繰り返しません」という教訓が現在まで受け継がれているようにも見える。
子供が消えた理由についての、いくつかの推論
それでは、子供たちはなぜ消えてしまったか。それは、今もって「謎」とされている。
もちろんいくつかの説はあって、阿部氏の著作の中でも語られている。阿部氏自身も独自の見解を出しているのだが、それは伏せておくことにしよう。というのは、『ハーメルンの笛吹き男~伝説とその世界』は、梅原猛氏の『隠された十字架』や『水底の歌』などと同様、推理小説のように読むことができるので、ここで言ってしまうとネタバレになってしまうからだ。『ハーメルンの笛吹き男~伝説とその世界』は歴史的名著だと思うので、興味がある方はぜひ読んでみてください。
ともあれ僕は、社会人一年生くらいのときにこの本に出会い、以来、ハーメルン事件の謎究明にハマり、大いに好奇心をかきたてられてきたのだった。
阿部謹也氏の著作はほとんど読んだし、パソコンというものに触るようになってからは、最初はニフティサーブで、インターネットが普及してからはウェブ上でいろいろ調べもした。ドイツ語のサイトにも出張したし、ドイツ人とメール交換もしたし、実際にハーメルンにまで行ってみた――というのは大嘘で、実際に行ったのは格安航空券を取り扱う旅行代理店のカウンターまでだ。そこにクレジットカードを叩きつけ、「ハーメルンまで大人一枚!」と思わず言いそうになったが、翌月の生活のことを考え、思いとどまった。
ま、それくらい、ハマったわけです。誰に頼まれたわけでもないのに、我ながらいじましくもヒマなことだ……。
そんなことはどうでもいいのだが、ハーメルン事件の真相について、現在では、大きく分けて四つの説が提唱されている。それに、僭越ながら僕の見解も加えつつ、ここで紹介させていただく。
と、その前に、笛吹き男がネズミを退治するという件は、後になって付け加えられた創作であり、この話は、要は一人の男が、ハーメルンの町から一三〇人の子供を連れ出したということが主体となっているということをお断りしておきたい。
さて、四つの説である。
一つは①病気説だ。子供たちが何らかの病気になった結果、町を出ていくことになったというもので、この説はさらに二つに分類される。
①病気説aは、その病気はペストなどの伝染病で、それに罹患した子供をその町から追放した、というもの。この説なら、後になってネズミの一件がお話として追加されたことも説明がつく。ペストはネズミが媒介するからだ。そして伝染病に感染した病人をどこかに追放してしまうのは、それこそ人類の歴史とともにあった行為だから考えられないことはない。しかし、子供だけが伝染病に罹患したというのは、やはりかなり無理がある。
①病気説bは、子供たちが舞踏病に罹患したというもので、これは古くから支持を受けてきた。
舞踏病というのは、身体が不随意運動を行う病気全般を指すようになっているが、一般的によく知られているのはハンチントン(舞踏)病だ。ただ、これはむろん伝染病ではなく、しかも主に大人になってから発症する病気である。だから一三〇人の子供が一斉に、というのはあまり考えられない。ただし、何かにとり憑かれたように練り歩く様子を昔、「舞踏病」と称していた可能性は十分にあるし、広い意味での舞踏病説はありと言えるかもしれない。
事件が起こったのは、夏至祭りの日。浮かれた子供たちが何かのきっかけでハイテンションになってしまい、やがてどこかへ消えたということは十分にあり得る。そして、これが②事故説に結びつく。その結果、何らかの事故に遭遇した、というわけだ。しかし、そうした例は、人類の歴史の中で他にもたくさんあっただろうし、ハーメルンの一件だけが、長く語り継がれている理由にはならない。
笛吹き男の存在に重きを置いた説としては、③子供の十字軍説がある。
ハーメルンの事件が起きたのは、一二八四年。十字軍は、だいたい九世紀から十三世紀にわたって行われているから、もし、そうした少年少女義勇軍――むろん、これはキリスト教徒から見てだが――みたいなものが存在しても不思議はない。その場合、笛吹き男は、徴兵官ということになる。そして、教会の圧力などにより、子供が連れて行かれるのを親が黙認していたとすれば、確かに「ハーメルンの笛吹き男」のお話とも合致する。
子供の十字軍の実態は、歴史的にもよくわかっていない。だいいち、子供といっても、この時代、何歳くらいまでを指すのか、それすらもわかっていない。ただ、一つだけ言えることがある。それは今でも、子供を兵士にすることは行われている、ということだ。人類最悪の犯罪だ。今でさえそうなんだから、十三世紀では普通だっただろう。そして、子供――明確な定義はないけれども――の、戦争における戦闘力は、当然、大人よりも下回る。だから、十字軍戦士として大いに有効だったかというと、それは考えられない。それでも、子供の十字軍というものが編成されたとしたら、やはり人間の楯のような使われ方をしていたと思われる。とてつもない悲劇ではあるけれども、当時の親たちがそれを悲劇として認識していたかどうかということはまた別問題だ(後述)。
この③子供の十字軍説と似たようなものに、④東方植民説というものがあって、これは現在広く支持されている説だ。当時のドイツは、さかんに東方植民していて、その役割を子供や青年が担っていた。ハーメルンの話に出てくる笛吹き男は、植民募集官だというものである。
ただ、なんだかいちゃもんばかりつけていて申し訳ないが、この説にも疑問符は付く。東方植民はドイツのあらゆる都市で行われていたはずだ。なぜ、ハーメルン――この伝承のみで世界に知られているような都市――だけに、こうした話が、しかも悲劇として伝わっているのか。もう一つわからないのは、今、ハーメルンの街に存在している舞踏禁制通りの「教訓」だ。「あの悲劇を長く記憶し、そして二度と繰り返さないために、ここで放歌高吟するのはやめましょう」とは、明らかに現代の感覚である。
子供が消えたのは、「悲劇」ではない!?
そもそも昔、十三世紀の人にとって、十三世紀の親にとって、130人の子供が失踪したことは本当に「悲劇」だったのだろうか。そして十三世紀において、子供というのはどのような存在であったのか――。
阿部謹也氏の著作『甦える中世ヨーロッパ』には、エドワード・ショーターという学者の言葉を引用して「今日では繊細な優しさとか愛情あふれる親しさなどは通常の両親と子どもの関係の一部分であるかのように思われているので、われわれはそれが歴史的にみて常に不変なものだとおもいがちだ。しかしながらこういった特性は、一八五〇年以前においては、母親と小さな子どもとの関係のなかでは相対的にまれであった」とある。
では、なぜ、親が社会が、子供というものを必要としたのか。それは当然、社会保障が発達していない世の中では、親の老後の面倒を看させるためであり、また親の遺産――田畑や、ドイツの都市民であれば、ギルドやツンフトの権利など――を受け継がせるためだろう。しかし、それには、子供は二人いればいい――「男・女」なら女子は嫁に出し、「男・男」なら一人は女子しかいない家に養子に出し、「女・女」なら一人は嫁に出し、一人は養子を取る。
にもかかわらず、「古い家族は多産であり、子どもは少なくともごく幼い時期には育てるに値しないものであった。彼らは重要ではなく、人びとの注意もひかなかったから、子どもの数をかぞえる必要などなかった。子どもの数は子どもの将来に対する親の無配慮の結果であった」(『〈教育〉の誕生』中内敏男他訳)
ここでは「親の無配慮」と評しているが、昔は乳幼児の生存率はきわめて低かったし、ペストが猛威をふるったときは、当然、大人よりも子供の死亡率が高かった。だから、たとえ必要とする子供の数が二人だったにせよ、スペアとしての子供が必要だったことは推測できる。
ハーメルン事件があった頃、十三世紀の世界の人口は約三億人弱だったと推定されている。産業革命前の十八世紀の初頭で五億人強だから微増と言っていい。人口がまり増えていないということは、当然ながら、十人の子供がいたとしても、そのうち二人しか生存が許されなかったということだ。
そういうふうに親と同じ数の子供しか生存が許されなかった中で、「スペアの子供は必要だけれども、あるときになると必要なくなる」という問題は、人類の歴史とともにあり、そして人類は、それを何らかの手段で解決(?)してきた。
たとえば日本では――。
ハーメルン事件が起きたのは、1284年。日本でいえば鎌倉時代であり、二度目の元寇があって、そのときの得宗だった北条時宗が死んだ年。つまり、鎌倉幕府の衰退の始まりの時期、と言ってもいい頃だ。この事件が、日本の鎌倉時代に起こったということはとても興味深い。
鎌倉時代というのは、日本史上でもとても重要かつ不思議な時代だ。鎌倉幕府は、要は土地開拓者たる武士が、その開拓した土地を自分の名義にするためにできた政権と言ってもよく、それだけ武士たちは土地に対する執着が非常に強かった。一所懸命という言葉が今でも残っているくらいだ。そして、鎌倉時代の相続システムは、驚くべきことに、そうやって必死で手に入れた土地を、子供たちすべてに分け与えるというものだったという。しかしむろんそれでは、田畑は細分化されて、用を成さなくなる。だから、そういう相続システムが、鎌倉幕府の衰退の原因になったという説もある。
室町時代から、全子相続という慣習がだんだん崩れていって、長子かどうかはわからないけれど、兄弟のうち一人が相続するというシステムが確立していった。室町時代は、寺社勢力が大きな力を持ち、それが社会の健全な発展を阻害していたが、寺社勢力は一方で、「要らない子」を、たとえば僧兵として大勢“吸収”していた。だからこそ武装勢力としてのプレゼンスを拡大できたのであり、逆にそうした「要らない子」をとにかく食わせていかなければならないから、いろんな横車を押した、とも言える。
信長、秀吉、家康の三人は、この寺社勢力を徹底的に叩いて縮小させた。その代わりに三人は、都市というものに、「要らない子」の吸収という役割を持たせた。そういうふうにも言えると思う。
織豊政権から江戸時代にかけて、日本には、当時の世界では類を見ない大都市が出現した。農村出身で、田畑を相続する見込みのない子は、そういう大都市ならではの大店などに丁稚奉公に行かされた。そして、本来相続すべき長男に何かのことがあれば、再び実家に呼び戻された。都市は、余っているけれどもスペアとしては必要な子供を一時的にプールしておく役目を担っていたのだ。
しかし中世のドイツには、そうした余った子を吸収できるような大都市はない。だから、東方植民だったとも言えるだろう。余った子たちの、ごくごく穏当な処理策として、開拓植民としてよその土地にやる。子供たちとて、植民ということに新たな夢を見出していたかもしれない。
「要らない子」をどうするのか
さて、ここから、恐れ多くも推測してみよう。といってもハーメルン事件の“真相”に迫ることなどできないが、しかし論の帰結として導き出されることはあると思う。
当時、というよりも現代にいたるまで、子供は、大人と社会の都合でいいように扱われていた。子供の人権なるものが確立したのは、人類の長い歴史の中では、ごくごく最近だ。
繰り返すけれども、「要らない子」をどこかにやる、というのは、それが子捨てであれ、子供の十字軍であれ東方植民であれ、それに類することは世界中で行われてきた。だから、ハーメルンのこの一件だけが語り継がれ、またハーメルン市だけが、舞踏禁制通りなどを設け、「反省」しているのはおかしい。
となれば、である。おそらく、十三世紀のハーメルン市は、「要らない子」のオペレーションに失敗したのだ。「要らない子」の処分は、それまでも何らかのかたちで行われていたが、その年だけは、おそらく「要る子」まで子供の十字軍なり東方植民なりに出すか、あるいは単純に子捨てしてしまったのだ。その結果、ハーメルン市は、ギルドやツンフトの利権を失ってしまったり、田畑が荒廃してしまったり、と、そういうことが起きたのではないか。そしてもうそんな失敗――悲劇ではなく――を絶対に繰り返さないという思いが、伝承になったのではないか。その伝承を、現代人が現代的な子供との情愛を想定して受け取った結果、「子供オペレーティングの失敗」ではなく、「子供を失った悲劇」になってしまった、と。ま、もちろん素人の推理、もとい妄想なんですけどね。
でもそんなふうに考えていくと、今の日本の子供を取り巻く状況が、ハーメルン事件のときと似ていることがわかる。
今、少子化が問題になっている。なぜ問題なのかといえば、やはり年金をはじめとした社会保障制度が課賦制になっていて、それを負担する若年層が未来永劫に絶対に必要であるということがあるだろう。また、一千兆とも言われる国と自治体の借金を返していくためにも、一定の数以上の未来の納税者は絶対に必要である。
要するに、大人たちがさんざん美味しい思いをしたツケを、今の子供たちに回そうとしているわけで、子供という存在を、大人と社会の都合でいいように扱っているのだ。それは基本的には、「要らない子オペレーション」を行っていた十三世紀となんら変わることはない。
また、そうした状況を「子供たちに幸福な社会を(略)引き継いでいかねばなりません」というふうに、きれいごとのオブラートに包んでしまう点もまた、ハーメルン事件が「失敗」ではなく「悲劇」にすりかえられてしまったことと――これは、僕の推理、もとい妄想ですが――共通性があるような気がする。
つまり、今の日本の子供たちを取り巻く状況は、まさに「ハーメルンの笛吹き・後日譚」化しているわけで、そう思うと、子供のときに読んだ「ハーメルンの笛吹き男」のお話から感じた本能的な恐怖――ハーメルンの町の大人たちが子供たちが連れていかれるのを黙って見ていたこと――を、再び感じてしまうのである。
その後、この「謎」にとりつかれたあまり、ミステリ小説らしきものまで書いてしまいました。