田中康夫氏選80年代大学ランキング。ところで何の?
男子
1 芦屋大 玉川大 甲南大 南山大
2 東京歯科大 杏林大 兵庫医科大 日本歯科大
3 立教大 学習院大 慶応義塾大 同志社大 関西学院大 神奈川歯科大
女子
1 玉川大 帝塚山学院大 南山大 白百合女子大 甲南女子大 松蔭女子学院大
2 成城大 成蹊大 鶴見大 金城学院大 梅花女子大
3 学習院大 青山学院大 聖心女子大
突然ですが、これがなんの大学ランキングだかおわかりでしょうか。以前、予備校を取材していて、まったくの余談ながらその予備校のOBであり、いろんな著作で浪人時代について語っている田中康夫氏のことが話題に上り、そういや、僕の自宅にも田中康夫が書いた大学受験の本があったなあと思って引っ張り出して何十年ぶりかに開いてみたら、このランキングに出くわしたのである。そういうとピンとくる方も多いだろうが、クイズの解答(?)は後で公開するとして、まずはその著作について少々お話をさせていただきたい。
その本『大学受験講座』は八〇年代終わりに刊行され、もともとは雑誌『POPEYE』に連載されていた記事だ。連載当時、僕はもう社会人になって大学案内のコピーを書いたりしていたけれど、仕事柄、おもしろがって読んでいた記憶がある。「メソッド」という当時は聞き慣れない言葉を僕はこの本ではじめて知り、得意になって使っていた(馬鹿ですね)。
そんなチョー古い本ではあるのだが、あらためて読んでみると、なかなか真を突いている。とくに勉強法については、教科書と学校の勉強に重きを置くことを一貫して主張しており、これは今に通じる掛け値なしの真実なのだろう。「わからない単語があったら辞書を引き、わからない構文があったら文法書をひもとく。牛歩のように思えるこうした勉強法が、結局のところ応用力も身につけられる真の英語学習法である」という一節などは、受験生じゃないのに襟を正される思いがする。勉強に対して誠実かつ愚直である人が、結局は勉強において成功するということをあらためて感じさせてくれるのだ。
一方、誠実でないのは「大学の選び方」についての記述で、それが冒頭のランキングである。種明かしをすれば、「入りやすくてカッコよくてモテてしまう田中康夫式・大学ランキング」だ。要は、「偏差値」と「モテ度」を天秤にかけ、そのパフォーマンスのいい大学、ということなのだろう。この時代の「偏差値に頼らない大学選び」とも言える。モテるかどうかは知らないけれども、なんとなくイメージのいい大学群であることは間違いない。
今からすればふざけていると思われるかもしれないが、ただこのようなことは、この本が刊行されるより前、僕らが大学を選ぶ頃にも確かにあった。当時は、関東の有力私大はMARCHではなくJARとしてくくられており、予備校にもそうしたクラスがあったのだ。つまり「早慶の次」は上智(J)、青山学院(A)、立教(R)であり、明治、中央、法政は人気的にも偏差値的にもひとつ下だったと思う。昨今の明治と法政のイメージ戦略の卓越さから見ると、ちょっと信じられない気もする。
また同書には、先のランキングとは別に「在学中の恋愛と就職意識を考慮したJAR以外の田中康夫式・大学イメージランキング表」が掲載されており、「慶応義塾大・商>国際基督教大・社会科学」「関西学院大・法>明治大・法」「同志社大・商>立命館大・法」「学習院大・経済>中央大・経済」「聖心女子大・文>日本女子大・文」「清泉女子大・文>明治学院大・文」といった勝ち負け不等号が並んでいる。女子大不人気の今からすると「清泉女子大・文>明治学院大・文」などは納得しがたいのだが、当時は確かにそうだったのだ。
つまり、こういうことだ。現在は、大学は基本的には偏差値で選ばれる。「偏差値にとらわれず行きたい大学学部を選びましょう」とよく言われるが、実は、バブル当時の頃のほうがそれは実践されていて、今のほうがより偏差値偏重だ。バブルのときは超売り手市場ということもあり、忌々しい学歴フィルターの影響も少なかったのである。また今とは違って早慶や国立大は就職支援をまったく行わない時代だったので、田中氏が挙げたような大学がイメージのよさとあいまって、早慶と遜色のない就職状況を達成していた。むろん女子大の場合は、「女子一般職」が大量採用されていたことも大きい。
すべての人がリベラルアーツを学ぶ必要はない
今、大学も二極化しているとされる。今年のはじめ、『東洋経済』(2018年2月10日号)が危ない大学ランキングを発表したが、その特集のなかでは、東大京大などのトップ大学と地方国公立大の研究予算の投下に大きな格差があることが取り上げられていた。2004年の国立大学独立法人化以来、研究資金の調達法が変わりトップ大学集中型になっているのは事実だ。今回の大学入試改革にも、そうした一部のトップ大学の国際競争力強化する意図があるので、このようなことは確信的に行われていると考えていいだろう。
以前、(株)経営共創基盤CEOの冨山和彦氏が「一部のトップ校を除いて、ほとんどの大学は職業訓練校になるべき」と主張して話題となった(反感を買った?)が、このことは、保護者からすればとてもよくわかる。
今の大学には、社会に出て行くにあたっての実用スペックを養成する機能がない。それは、最低限の英語4技能と最低限のICT能力だ。具体的には英検2級とP検3級(別に級を取らなくてもいい)程度であると思われる。そして現状では、こうしたスキルを身に付けるのにダブルスクールなどが必要になっている。大学サイドが、社会(≒保護者)が要求するコンピテンシー育成に応えていないのだ。
とくにプログラミングに関しては、2020年度から小学校で授業が始まり、今、社会的にも大きな注目を集めているのにも関わらず、大学サイドの対応にはまったくもって不満である。プログラミングを教えるのはIT系専門学校であり、大学はそうした場ではないという常識めいたものがあるようにも見える。これは、「エリートはプログラミングなんてしない」という儒教的(?)な思想にとらわれているのかもしれない。しかし今は、大学生イコールエリートではもちろんない。にも関わらず、今の大学は、富山氏がいうところの「一部のトップ校」であるところの大学も「職業訓練校になるべき」大学も、基本的には同じことをやっているのである。
学問を学問として扱う学問、すなわちリベラルアーツに取り組む人はごく一部の学問エリートでいい。そしてそうした学究指向の大学(「リベラルアーツ型大学」と呼びたい)には、明日の明るい日本のために、もう国費をじゃぶじゃぶ投入しちゃってください。その一方で、明日の明るい自分のための大学――「職業訓練校になるべき」大学と呼ぶのもナンなので「ディプロマ型大学」とここでは呼びますが、そういうところでは、英語教育やプログラミング含むICT教育といった現代社会において「水」「空気」レベルのスキルをきっちり授けてほしいのであります。オプションではなくカリキュラムの一環として、つまり受講料なしで、だ。できれば、必須体験となる長期留学もカリキュラムに組み入れてほしい。実際、そうなっている東京都市大や近畿大の国際学部は大人気を博しているという。
大学入試改革も、ここでいうところのリベラルアーツ大学とディプロマ大学に大学を分化させていく役割があるのではないかと思う。それを象徴しているのが、東大の「4技能検定は使いません」発言だ。後に取り下げられるが、これはまさに東大が、従来の受験英語の英語力を「絶対」と考えている証拠ではないか。
「イメージ×ディプロマ機能」で大学を選ぶ
そもそも日本における英語教育は、英語で書かれた約款や論文を誤謬なく読めることを目的としていた。つまり、官僚や研究者のための英語だった。「This is a pen」が揶揄の対象になったりもするけれども、そのような目的からすれば、これは理に適っていたのである。そしてその系譜の延長線上に、今のセンター試験や個別学力検査の英語がある(センター試験の英語は、ここ数年でだいぶ様変わりしたが)。
一方、いわゆるグローバル化に対応して、外国人とコミュニケーションする英語が重要視され、「英語が使える日本人」構想のもと学校教育も変わりはじめた(「This is a pen」離れした?)。2020年から導入される英語4技能検定は、その延長線上にあるものと言っていいだろう。
今、英語は「誤謬なき読解英語≒受験英語」と「コミュニケーション英語≒4技能検定」に分化しつつあり、それぞれ、リベラルアーツ型大学とディプロマ型大学に適合する。逆に言えば、ディプロマ型大学は、コミュニケーション英語が磨かれる場所でなければならない。そしてそれは、しつこいようですが、カリキュラムに組み入れてほしいのである。
わが子が、リベラルアーツ型大学で行ければそれはそれで素晴らしいことだ。しかし、そうでない場合が大半である。多くの高校生は、ディプロマ型大学に行く。そうしたときには、その大学に行かせながら(学費を負担しながら)ダブルスクールさせ、留学にも行かせるなんて、そんなことは絶対にしたくないのである! となれば、ここまで述べてきたようなディプロマ機能が充実している大学を選ぶのが正解であり、そうした局面において、冒頭に示した「イメージ」というものは存外に大切になる。
大学のイメージは一般社会に根強く浸透していて、それは就職などの際には、わりに有効に作用する。田中康夫氏の「就職意識を考慮した」は、現代にも生きている。そしてそのイメージと合格偏差値の乖離がはなはだしい大学も、今は女子大中心にかなりあり、こうした大学はおトク度が高い。となれば、今後のディプロマ型大学選びは、「イメージ(≒過去の栄光)×ディプロマ機能(≒未来への対応)」がひとつの大きな指針になるのではないか。と、かように考える次第であります。