中学受験勉強時代の思い出

中学受験塾には、すごいインテリがいた

個人的な話で恐縮なのですが、大昔、小学校6年生のとき、一応は中学受験というものを目指して塾に通っていた。

入塾テストを受けたところ、何の間違いか、その塾でいくつかあるクラスの中で上から二番目のクラスに所属することになって、そこには、まあ秀才というのだろう、ただ、ちょっと変なヤツが結構いた。

あるとき、その中の一人「わっくん」(本名は忘れてしまった)が近づいてきて、僕に言ったのだった。

「まぼろしの邪馬台国、読んだことある?」

僕はまったく面食らってしまった。「やま……、てそれ何?」

わっくんは、僕の無知ぶりにはたいして関心を払わず、「読んでないなら、貸してあげるから僕んち来なよ」と言い、僕はといえば財布の中の電車賃を確かめてから、のこのこと彼の家までついて行ったのだった。

案内されたのは団地の一角で、しかし、わっくんは自分の勉強部屋を持っていて、そこはまさに本の要塞といった風情だったのを今でも覚えている。

そして、たくさんある本の中から一冊取り出し、「おもしろいよ。読んでみなよ」と言った。その本が『まぼろしの邪馬台国』だったのだ。

『まぼろしの邪馬台国』とは、ある年代以上の方になら説明は要らないと思うけれど、いわゆる邪馬台国ブームのきっかけとなった本で、著者は当時、島原鉄道の社長だった宮崎康平氏である。宮崎氏が、邪馬台国は島原の地にあったと信じ、奥さんと二人三脚でその仮説を検証していくというお話なのだが、この書の存在が、学者ではない一般人の間にも「邪馬台国はどこか」という論争を巻き起こしたとされている。

ちなみにそのとき、わっくんから借りた『まぼろしの邪馬台国』は、今でも僕の本棚にある。わっくん、ごめんなさい。なぜ、そんなことになっているのかと言い訳すれば、二学期前のクラス分けテストで、僕はその塾の最下位のクラスに転落し、わっくんは最上位のクラスに栄転していったからだ。最下位クラスと最上位クラスでは教場も別であり、以降、僕は二度とわっくんに会うことはなかった(その後、わっくんが超難関中に合格したという噂は聞いた)。

中学受験塾には、「遊びの先生」もいた

その最下位クラスで「お前よお、『フレンズ』観たか?」と、机に尻を置いて高圧的に訊いてきたのがFくんだ。上位クラスと下位クラスでは言葉使いも違っていた。しかもその下位クラスは「男子組」であり、当然ながら野郎ばかりが押し込められていて、したがって雰囲気も殺伐としていたように思う。Fくんなどは、机に向かってよく空手チョップをしていた。

Fくんが言った「フレンズ」とは、映画『フレンズ』のことだ。いわゆるアメリカンニューシネマのイギリス版ともいえ、当時としてはかなり衝撃的な内容であり、驚きと感動をもって迎えられた――と、今ならそういう解説(?)もできるが、しかし当時はなにしろ僕は小学生である。それまでに観たことがある映画といえば、ゴジラ映画ぐらいのものだったのだ。

そこへもってきて、「フレンズもう観たか?」と、フレンズなるものを観てなければ人間じゃない、といったふうな訊き方をされたことに、またしても面食らってしまった。

むろんFくんも、背伸びをしてみたかったのだろう。ただ背伸びをしたい対象が映画という分野、しかも社会派とされている映画だったというのは、ベトナム戦争中の70年代前半という時代のせいだったのかもしれない。

ともあれ、そのFくんとは、ともに中学受験には失敗したが、大学の頃までつきあいが続いた。大学時代には、彼に、当時の流行発信地ではあるけれども、僕はびびって入ることができなかった憧れのブティック「ビームス」に連れて行ってもらったり、吉田拓郎のヒット曲『ペニーレインでバーボン』に出てくる原宿「ペニーレイン」に連れて行ってもらって、一緒にバーボンを飲んだりもした。要はFくんは、遊びの先生だったわけである。

一方、わっくんから貸してもらった『まぼろしの邪馬台国』は、読むのにかなりてこずってしまった。ただこの『まぼろしの邪馬台国』によって、世の中には「小説」ではなく「自分の意見の表明」する本もある、ということを知った。

また、これは「歴史の謎」ということをテーマにしているということもわかり、これも結構衝撃的なことだった。というのは、それまでは歴史(社会)の勉強なんて、もうまったくの義務であったのが、勉強の方が「謎」という魅力的なアクセサリーを身につけて、こちらに歩みよってきてくれた――と、こんなふうな分析できたのは、もちろんずいぶん後のことですが。

余談ながら、今、大学入試では「思考力」「判断力」「表現力」が求められているが、実は名門私立中の入試では大昔からそうだったと言われる。そしてそうした問題に取り組んでいくには、やはり自分の興味のおもむくままに学ぶ姿勢というものが重要になるのだろう。だからわっくんが小学生ながら『まぼろしの邪馬台国』を興味深く読んでいたことと、超難関中に合格したことは決して無関係ではないと思うのである――もちろんこれも今思えば、ですが。

麻布中の2011年度入試「社会」の問題だが、僕は個人的にはこの問題が大好きです。こういうことを小学生に考えさせるんだもんなあ……。

中学受験塾で「大学生がやるべきこと」も見えた気がした

もう一つ、中学受験勉強時代の思い出といえば、女子大生である。

僕が行っていた塾は、塾というよりも、いわゆるテスト会であり、会場は、当時は原宿にあった社会事業大学の校舎を日曜日に間借りしていた。

その大学キャンパスには、日曜日といえども大学生がいて、その中の一つのグループが突然、先のわっくんと僕に近づいてきて言った。

「ハンセン病支援に協力してください」

それは女子大生のグループだったのだが、真剣な目で、「ハンセン病はきちんと治療すれば治る病気です。でも、それが理解されなくて不当に差別されているのです」と、小学生である僕たちをまるで一人前の大人のように見て、訴えかけてきた。

僕はその当時、ハンセン病という病気があることも知らなかったし、それが差別されていることも知らなかった。しかし、その女子大生の真剣さは心に響いた――というと、あまりにも感想として陳腐だけれど、ああそうか、大学生というのは、こういうことをする人たちなんだ、と、なんだかつくづく納得し、僕も大学に行って何か人の役に立つことをしてみたいと漠然とだが考えたのである。

もっとも、その7年後(浪人したんで)に入学した大学は、ずいぶんとチャラい場所になってしまっていて、7年前の決意(?)もどこへやら、僕自身もチャラい大学生活を楽しんだのだけれども、ただ、今になって振り返れば、中学受験勉強時代というのは、なんだか、いろんなことに目を見開かされた時代だったのだなあ、としみじみしてしまうのは、やはり僕がジジイになってしまったから、なんでしょうね。

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