教科書vsアクティブ・ラーニング

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私事で大変申し訳ないのだが、うちの子がこの春、大学進学することとなったので、それまでの教科書を処分することにした。しかし、いまどきの子は学術書を捨てるのになんの抵抗を感じないことに、まったく驚いてしまいますな。僕などは教科書の類を捨てるなんてなんだか神をも畏れぬ行為のように感じてしまうし、いまだに高校時代の教科書や副教材が本棚にある。

とんちんかんなところにラインマークするのはDNAがなせるものか

今、山川の世界史・日本史教科書が静かなブームになっていると聞くが、俺なんか76年版を持っているし、二宮書店の「高等地図帳」という副教材もあるもんねー! と自慢することではまったくないのですが、ただそれを開いて見てみるとやはりおもしろい。コルカタはカルカッタだし、ミャンマーはビルマだし、ティモール島の東半分は(ポ)と記されたポルトガル領だ。もちろんソ連やチェコスロバキアやユーゴスラビアも健在(?)で、ドイツはふたつある。結構「お宝」だったりするのである。

そうやって昔の教材に目を通していると、ひとつ気づくことがある。高校生だった自分は、まったくとんちんかんな箇所にラインマークしていたり、教科書の太字をいわば後追いで無意味に赤字でぐるぐる囲んでいるのだ。ははあ、そうやって勉強した気になっていたんだなと苦笑するが、わが子の教科書を見ても、まったく同じ愚をおかしていることに笑ってしまう。さすがDNAである。ちなみに、東大合格者の手記などを読むと、ラインマーキングなどは理解の定着になんの役にも立たないのだそうだ。

さて、わが子の教科書をあらためて見てみる。理系だったので「数Ⅲ」などもある。僕は「数Ⅲ」を履修したことがなく、それだけになんとはなしの憧れがあった。が、当然ながらまったくわかりません。でもまあなにせ「数Ⅲ様」なのだから、僕のような愚者に簡単に心を開いてくれるほうがおかしいというものだ。

数学Ⅲ教科書

数Ⅲ教科書「関数の極限」。悪戦苦闘の跡があります(笑)。

それでは気を取り直して……。今度は「化学」を開いてみる。平成二三年度実施の学習指導要領によるものだから、保護者世代の教科書でいえば、「化学Ⅰ」の難しいところと「化学Ⅱ」を足した内容になっていると考えればいいかもしれない。

文系にも、実は興味深い元素の世界!

実は僕は、高校1年次から、あーもう五教科なんて絶対無理だ私立文系三教科だけやっていこうと決めていた人間なのだが、それでも「化学」という科目だけは好きだった。私立文系学部の一般入試には「化学」はないし、共通一次(今のセンター試験)を受けるにあたっても、理科一科目だけ好き、あるいは得意でもまったく意味がない。だからこそ純粋に、今でいうところの「オタ活」の対象として化学、とくに「化学」の教科書の最初に出てくる元素をとらえていたようにも思う。

それではオタにとって元素の魅力はなにかといえば、推理小説に似た性質のものだ。つまり、表に現われた現象(被害者、殺害状況など)はわかっているのだが、その裡にある構造(犯人、動機など)がわからないというものである。僕は、小学生の頃からコナン・ドイルや松本清張などを読み耽りつつ、完全犯罪を成し遂げるにはどうしたらいいかということを常に考えていたアブナイ少年だったので、元素というオタ活対象にはすぐに飛びついてしまったし今でもその世界に惹かれている。ただ、その魅力の全容を僕の文章力で表現するのは無理なので以下を引用したい。essaさんという方のブログの記事だ。

子供が元素の周期表を勉強していて、「なんでこんなものを覚える必要があるのか」と言うので、次のように説明してみた。

デスノートの悪魔みたいな奴がひまつぶしに人間世界を覗きに来た。この悪魔には、不思議な眼力があって、人間を見るとその人間の所持金合計(現金のみ)とその現金の重さを見ることができる。

たとえば、1万円札を一枚だけ持っている人なら、「所持金10000、重量1万円札一枚分の重さ」という二つの数字が見える。しかし、この悪魔には、この二つの数字の意味がわからない。だから、単なる無意味で関連のない二つの数字が並んでいるとしか思えない。同じ金額の持ち主でも金種の組合せによって重量が全然違う。金額が大きくても重量が小さい人もいるしそうでない人もいる。悪魔には財布の中身を見ることはできないので、どういうルールで二つの数字が並んでいるのか全くわからない。

人間が物質を観察しているのは、この悪魔のようなもので、その中身や構成要素はわからなくて、化学反応やら重量やら物質の固まりとしての性質や値がいくつか読み取れるだけだ。

(中略)

元素の周期表は、この悪魔のような人たちが、さまざまな物質に対していろいろな実験や観察する中で、その結果をなるべくシンプルに整理する為に作った表である。

説明されている通り、元素のなかには同じような性質を有しているものがあり、それをまとめたのが周期表だ。そしてその性質とは、最外殻電子の数で決まる。なぜ最外殻電子の数で決まるかといえば、その軌道を元素同士共有することができるからだ――ということを今、僕たちは当たり前のように知っている。だが、昔の人はどうだったのだろう? 前記の「悪魔」と同じ状態であったとは容易に想像できる。実際、世界ではじめての周期表がつくられたとき、電子殻の存在はまだ知られていなかったという。そしてそのような先人たちの努力とそれがもたらした“真実のロマン”に思いを馳せると、僕はなんというかもうとても幸せな感動に包まれ、ついつい冷蔵庫から缶ビールを取り出しプシュと開けてしまうのである。

それはそれとして――。実は僕は高校で、前出の悪魔の話にも似た説明を化学の先生から聞いたことがある。それは、「841円のものを買うのに、財布の中に一円玉があれば、千円札と一円玉一枚という支払い方をする。でも847円のものだったらどうだ? 五円玉一枚と一円玉二枚、あるいは一円玉七枚を財布の中を見て探すか。探すやつはあんまりいない。つまり、財布の中の一円玉一枚は財布から出て行きやすいけど、財布の中の一円玉七枚はなかなか財布から一度には出ない。元素の(最外殻電子の)性格もそれと同じだ」といったようなものだったと思う(なにしろ、もう四十年も前の話なので記憶が定かではなく、かなり創作しているが、だいたいこんなものだったと思う)。そして、こうした話を聞きながら、なんだかわくわくしてしまって、化学好きになったのかもしれない。

教科書を百回読んでも、わからないものはわからない!

しかしながら、である。今回、教科書の「化学」を読んでいてもまったく楽しくない。先にあげたような元素の真実みたいものがまったく伝わってこない。むろんこれは、もともと持っている教科書の性質にも拠るだろう。

教科書は正確でなければならない。正確さを追求するあまり、いわゆる役所の文言になってしまうという一面は確かにある。しかし理解をうながすにあたっては、前記した二例のような、ある程度正確さを無視しても、まずはざっくりとしたおもしろい説明が不可欠である。それを体験できるかどうかで、その学問フィールドについての興味が決まるし、当然、成績にだって影響する。

教科書というものはあくまでも教則本であり、先生が教えるということを前提にしている。というと、なにを当たり前のことをと言われるかもしれないが、今回、その事実をあらためて確認したのだった。だから教科書単体では、「元素の性格には、なぜか似たようなものがある。不思議だ。それを性格ごとに縦に並べたら、ほら、こういう元素周期表というものができましたよ。ああ、なんとロマンチックかつオタ活対象であることよ!」という真実は、どこをどう読んでも導き出されないのである。

そして、そのことを再確認した僕は、うちの母親がよく言っていたことを思い出したのだった。

「教科書を百回読めばわかる!」

いやはやこれはもう、うさぎ跳びをさせたり、練習中に水を飲むことを禁じたりする体育会の古典的な練習法とまったく違わない悪しきエクササイズだろう。なぜ母親がそんなことを言っていたのか。おそらく自分の高校生だった頃の先生から言われたことに違いない。

「サイガイカクデンシ萌え~!」にたどり着くための学び

しかしながら今は、そんな教科書とはまったく別の学習アプローチが出現している。ご存じ、アクティブ・ラーニングだ。

アクティブ・ラーニングについては度々言及してきたが、要は、教科書的教条的ではない学びというふうに言うことができる。「生徒の知的好奇心を最大限に喚起できる」学びととらえてもよさそうだ。先にあげた「悪魔」の話や、お財布の話も、広い意味でのアクティブ・ラーニングだと思う。ただその場合、要は教師の資質が問われる。

それを、教師の資質とは関係なく、いわばシステム=教育科学として機能させたのが現代のアクティブ・ラーニングだ。先にあげた元素の例でいえば、グループ討論や探究などを通じて「おいおい、周期表ってロマンじゃね?」とか「サイガイカクデンシ萌え~!」に、全員がたどり着けるのである。若人の諸君、うらやましいぜ!

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