東大早慶が大半を占めるなかで
安倍首相は、成蹊大出身である。このことについて、皆さんは違和感を覚えたことはないでしょうか? どういうことなのかといえば、一国の首相の“学歴”に、中堅私立大たる成蹊大学卒は、なんとなくふさわしくないようにも思える、というものである。
歴代の首相の学歴を見てみても、やはり東大、早大、慶大が目立ち、そうでなければ、田中角栄のように小学校卒をいわば「売り」にしていた人もいて、中堅私大卒という学歴は、首相という存在に対してはインパクトが弱いようにも感じてしまう。
実際、安倍首相は、田中角栄の娘であるところの早稲田大商学部出身の田中眞紀子に、その学歴を揶揄されたこともあった。小学校のときから平沢勝英氏に家庭教師をしてもらっていたんだから慶応ぐらいは行けたんじゃない? というわけだ。
しかし――。文部科学大臣を務めた田中さんが自ら率先して学歴差別とは、まったくもって恐れ入る。が、しかしその当時、このことを伝えるメディアは田中発言に対して批判的な視点を持たず、それどころか田中さんの片棒を担ぎ、田中発言を安倍さんへのアイロニーとしたことをいまだによく覚えている、というか、個人的にはめちゃくちゃ根にもっている。なぜそんなふうに、田中眞紀子および大手マスコミに対して僻みを内包した強い憎悪の気持ちを抱くかといえば、僕が成蹊大出身であるからだ。
僕は、地方の公立高校から成蹊大に進学した。なぜかといえば、合格した大学のうち成蹊が一番偏差値が高く、そうした大学の選び方は、当時は今以上に基本中の基本だったからだ(今は、「偏差値ではなく、自分の本当にやりたいことができる大学を選びましょう」などと言われ、それは一面の真実なんだろうが、今の高校生はなんだかその言葉に踊らされすぎているような気もします)。もっとも、似たような偏差値の大学にも合格はしていた。
当時は、「MARCH(=明治、青山学院、立教、中央、法政)」という言葉はなかったけれども、僕の場合、M=受験せず、A=不合格、R=不合格、C=合格、H=合格という結果で(もちろん早慶も受けてともに不合格)、とにかく慶応や立教タイプの大学に憧れるという、田舎者ながらというか、田舎者ゆえというか、きわめてミーハーなメンタリティを持っていた高校生当時の僕は、中央や法政ではなく成蹊を選んだのだった――当時は「JAR(=上智、青山学院、立教)」という言葉があり(確か河合塾にも「JARクラス」なるものがあった)、これに、慶応、学習院、成蹊、成城、独協を加えた8校が、ミーハー高校生が行くべき東京の大学として広く認識(?)されていた。
で、そのミーハー高校生向き大学たる成蹊に入学するにあたって、僕は地方出身者としてがんばり過ぎてしまっていたのだろう、今でも大学時代の友人と飲むと、「お前は赤いタータンチェックのズボンを履いて学校に来ていた」と揶揄されてしまうのである。
難関の成蹊中高入試を突破した秀才が成蹊大に進む理由とは
それはともかく、成蹊大で5年間(!)を過ごし、身にしみてわかったことがある。それは、成蹊の附属高出身者はとても頭がいい、ということだ。
いや、成蹊の場合、「附属高」という表現はあまりふさわしくないだろう。というのは、成蹊は七年制旧制高校の流れを汲む中高一貫校が本流であり、大学は、いわば「傍流」だからだ。このあたりの事情は、武蔵中高と武蔵大の関係、あるいは駒場東邦と東邦大の関係に似ているかもしれない。
ただ、武蔵中高や駒場東邦中高の生徒がまったくといっていいほど武蔵大や東邦大(医学科を除く)に進学しないのに対して、今も昔も、成蹊中高の生徒は、わりに成蹊大に進学している。
成蹊中は、中学受験の世界では、武蔵中や駒場東邦中とまではいかなくても難関である。大学受験で成蹊大に合格するよりも圧倒的に難しい。なのに6年前に成蹊中という難関をクリアした秀才たちは、その多くが成蹊大に入学するのである。
成蹊という学校は、中高と大学が隣接している。だから中高生は、楽しそうな大学生を眺めながら学校生活を送るわけだ。となれば、安直に(?)成蹊大に行こうという気分になる高校生も多いと思われる。そして、多くの級友がそのまま“附属の大学”に進学するのなら「自分も」というふうになるのは、自然な成り行きかもしれない。
で、ここが重要なのだが、成蹊中高は、なんというか「エエトコ」の子女が集まる学校だ(成蹊大には、そうした性格はまったくないが)。そして、そういう「エエトコ」の子にとっては、出身大学が早慶ではなく成蹊でも、正直、あんまり関係ないのである。就職に際しては、社会的地位の高いお父様やおじい様が大いに力になってくれるからだ(少なくとも、僕らの時代はそうだった)。
安倍さんは、小中高時代の交友を優先した!?
えーとすみません、なんの話かといえば、安倍さんのことでした。
ともあれ上記のような事情から、安倍さんにとっては、慶応卒だろうが成蹊卒だろうが、神戸製鋼入社も、南カリフォルニア大留学も、政治家になることも、まったく関係なかったであろう、と思われる。なにせ、岸信介の孫ですからね。
むろん田中眞紀子の指摘通り慶応に行っていれば、政治家としてのハクはついたかもしれない。あるいはいつもいつもマスコミから不当とも思える集中砲撃を浴びているけれども、マスコミ人の多い早稲田を卒業生していたら、その砲撃も若干ながら緩めだったのかもしれない。
ただ、そんなことよりも、安倍さんは成蹊中高時代からの友人関係を優先したのではないか。実際、僕の同級生で、成蹊中高出身者のなかにそういう人間は大勢いた。そして、先に書いたように彼らは頭の回転が鋭く成績もよかった。大学受験していれば、おそらく早慶に合格できたと思われる連中も多かったのだ。
成蹊大においては、僕ら大学入学組が、偏差値で区切られ、その学力が合格偏差値に対応したものだったのに対し、内部進学者のなかには、何度もすみませんが、とんでもない能力を持っている人間がたくさんいた。だから、成蹊の内部進学者に対する「家庭教師がついていたんだから慶応くらい行けたんじゃない?」という批判はあまり当てはまらないのではないか、というのが、成蹊大卒業者の卒にして直な感想である。安倍さんが、実際にはどうだったのかはわからないですけど。
もちろん安倍さんは小学校から成蹊であるし、小学校受験は学力だけでない。ただ、こと難度ということからいえば、成蹊小は成蹊中・成蹊高をも上回る難関だ。共学の超難関私立小として慶応幼稚舎、早実初等部にも匹敵する存在であるし、慶応幼稚舎、早実初等部、成蹊小のそれぞれの所在地――天現“寺”、国分“寺”、吉祥“寺”を指して “三寺”という業界用語(?)もあるのだという。なお余談ながら僕らの時代は、成蹊大生に対しては「(同一キャンパス内にある)小学校の敷地にはみだりに近づいてはいけません!」というきつーいお達しが出ていた。
東大に学力だけで入れるのは日本の美徳?
ところで、世界を見渡すと、一国のトップはほとんどの場合、その国のトップといえるような大学を卒業している(このことも、冒頭の疑問を発する一要因だ)。では、彼ら彼女らが、そのトップ大学に合格するだけの高いペーパー学力を有していたかといえば、必ずしもそうではないだろう。というよりも、日本的感覚での「ペーパー学力がトップだからトップ大学に入学」ということ自体が「世界標準」ではない。
日本を除くほとんどの国では、将来的に、国家のトップになる可能性が高い、いわゆる名家に生まれた人間は、生まれたときからトップ大学に行くことがほぼ約束されているといっていいのではないか。なぜなら、ペーパー学力だけでなく、いわゆる人間力で入学判断するのが世界の大学の標準であるし、その「人間力」には、やっぱり家柄というものも含まれるからだ。海外の翻訳小説を読むと、主人公や主人公の子どもが生まれたとたんに、「ハーバードから入学許可が届きました!」みたいなシーンが出てきたりもする。
一方、日本では、岸信介の孫といえども、「生まれたときから東大」が決まっているわけではもちろんないし、学力以外の要素で東大に入学することはまったくもって不可能だ。そしてこれは日本の、ある種の「美徳」だ。
しかしながら、この「日本の常識、世界の非常識」が揺らいでいる。大学の入試改革によって、大学や送り出す高校サイドの「恣意性」が高くなることも予想され、その中で「機会不平等」が広がっていくことを懸念してしまう。繰り返すけれども、学力だけでトップ大学に入学でき、ある程度将来が保証されるのは日本社会の美徳であるのに、ここにきて「人間力」なる、恣意性が非常に大きい判断基準をふりかざされても、困る中高生やご家庭も多いだろう。
と、そんな思いを抱きながら、久しぶりに母校・成蹊大のキャンパスをぷらぷらとしてみた(成蹊小のエリアには近づいていません!)。そして、大学見学らしい女子高校生二人組が「指定校推薦がもらえるんなら、ここもいいかなあ?」「マジー? わたしは絶対ワセダ!」などと会話しているのを小耳に挟んだ。うーん、田中眞紀子は正しかったのか。苦笑。